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まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしは羊の門です。わたしの前に来た者はみな、盗人で強盗です。羊は彼らの言うことを聞かなかったのです(ヨハネ10:7−8)。
これは、ヨハネの福音書に出てくる七つの(数え方にもよるが)、いわゆる、’I am’ passagesの一つ。その全部が、福音書の後半、6章以降に出てくる。「ことば」なるキリストが、人類にとってどんな存在であり、彼によってなされた贖いの意味について説明したものである。それらがみな、キリストを信じる者が死からいのちに移されているという真理に関するものであるが、ヨハネ10章では特に、彼が死の中にある羊たちにいのちを与え、その囲いから連れ出す存在として描かれている(1−5節)。それが、二つのI amの述語的表現によって表されている:「わたしは門(または、羊の門)です」(事実、エルサレムにはその名で呼ばれる門があった。ヨハネ5:2、ネヘミヤ3:1、32参考)と「わたしは、良い牧者です。」二つとも同じ内容の真理を語っている。
わたしは門です。だれでも、わたしを通って入るなら、救われます。また安らかに出入りし、牧草を見つけます。盗人が来るのは、ただ盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするだけのためです。わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです(9-10節)。
わたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます(11節)。
「門」とは、そこを通って一つの囲いからもう一つの囲いに移る入り口であり、また出口のこと。前述のように、詩篇24篇が背景になっているが、聖書には他にもいくつか、門に関することばがある。
狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこから入って行く者が多いのです。いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです(マタイ7:13−14)。
大きな国定公園のような場所を思い浮かべると良い。その回りが高い塀によって全部囲まれていて、その一箇所だけに一人の人間が通れる大きさの「狭い門」が付けてある。神の国は大きいが、そこへ入る門はキリストお一人である。彼を通して以外、誰もそこへ入ることはできない。つまり、イエスの御名の他に、人が救われるべき名はない。また、次のようなことばもある。
ではわたしもあなたに言います。あなたはペテロです。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます。ハデスの門もそれには打ち勝てません(16:18)。
当時の大きな町はみな壁によって取り囲まれ、その所々に門が付けてある。その壁は、中に幾つもの部屋を作ることのできる程の幅があり、門をくぐると、壁の内側に数個の部屋があって、そこで町の重要なことを決める会議が行われた。「ハデスの門」とは、サタンとその霊たちがそこに集まって、神の働きの邪魔をして、一人でも多くの人間たちをハデスに引き落とそうと、その策略を練る場所のこと。それに対して、教会は、壁の上に建てられている塔のことで(箴言18:10参照)、詩篇24:7で言う門の「かしら」のこと。「天の御国のかぎ」とは、教会に与えられたイエスの御名。
さらに、どの福音書も、イエス様のエルサレムへの入場を大きな出来事として記録していることに注目(マタイ21章、マルコ11章、ルカ19:28以降、ヨハネ12:12以降)。当然、イエス様はエルサレムのどこかの門を通って町に入って来られたはずで、それは、ヨハネ10:2の「門から入る者」ということばが成就されたことになる。その後、彼が「自分の羊をその名で呼んで連れ出します」とあるが、それは以下のような出来事につながって来る。
また、墓が開いて、眠っていた多くの聖徒たちのからだが生き返った。そして、イエスの復活の後に墓から出て来て、聖都に入って多くの人に現れた(27:52−53)。

