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まことに、まことに、あなたがたに告げます。羊の囲いに門から入らないで、ほかの所を乗り越えて来る者は、盗人で強盗です。しかし、門から入る者は、その羊の牧者です。門番は彼のために開き、羊はその声を聞き分けます。彼は自分の羊をその名で呼んで連れ出します。彼は、自分の羊をみな引き出すと、その先頭に立って行きます。すると羊は、彼の声を知っているので、彼について行きます。しかし、ほかの人には決してついて行きません。かえって、その人から逃げ出します。その人たちの声を知らないからです(ヨハネ10:1−5)。
この羊の囲いの例え話は、イエス様の例え話としてよく知られている。当時のユダヤ人にとっては日常どこにでも見る、羊と羊飼の様子をもとに語られた。しかし、これを聞いていたユダヤ人にはこの例え話の意味が分らなかったようだ。
イエスはこのたとえを彼らにお話しになったが、彼らは、イエスの話されたことが何のことかよくわからなかった。そこで、イエスはまた言われた(6-7節)。
聞いている人々が理解できていないのを見て、イエス様は、もう一つの例え話を話された。
まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしは羊の門です。わたしの前に来た者はみな、盗人で強盗です。羊は彼らの言うことを聞かなかったのです。わたしは門です。だれでも、わたしを通って入るなら、救われます。また安らかに出入りし、牧草を見つけます。盗人が来るのは、ただ盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするだけのためです。わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです(7−10節)。
こちらの方は、解説付きの例え話で、ご自分が最初から「門」であることを述べる形で始まっている。彼と盗人との対照に注目すると良い。盗人は「盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするだけ」であるのに対して、イエス様の場合は、「羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです」という点。明らかに、彼を信じる者たちが、彼を通して得る永遠のいのちのことを指している。言い換えれば、盗人によって死んでいた者が、門なるイエス様を通って復活することを言っている。
このポイントを頭において、最初の方の例え話をもう一度よく読み直してみると、その意味が少しずつ見えてくる。「羊の牧者」とは、言うまでもなく、イエス様ご自身のことだが、他に、彼が羊を「連れ出します」、「引き出す」、また羊が彼に「ついて行きます」という表現に注目すると良い。明らかに、復活のことを指している。死人が甦って、イエス様を先頭に、死の門から出て彼について行く様子が、羊が羊の囲いから、その門を出て自分の牧者について行く様子に例えて話されている。これは、言うなれば、イエス様の死と復活を通して起きることを預言したもの。
実は、これらの例え話しの背景には、詩篇24篇があった。この例え話が語られたのは、紀元後32年12月14日の日曜日で、その日には神殿にて朝のいけにえが捧げられた後、この詩篇を読むのが習わしであった。イエス様は、その日、神殿にて人々が朗読したばかりの詩篇を使ってご自分を通して起きることを預言された。その二日後の火曜日(12月16日)には、ハヌカの祭り(宮きよめの祭り)をひかえていた(ヨハネ10:22参照)。火曜日には詩篇82篇が朗読された(10:34参照)。それはイエス様が復活される3ヶ月半ほど前の話しである。
門よ。おまえたちのかしらを上げよ。
永遠の戸よ。上がれ。栄光の王が入って来られる。
栄光の王とは、だれか。
強く、力ある主。戦いに力ある主。
門よ。おまえたちのかしらを上げよ。
永遠の戸よ。上がれ。栄光の王が入って来られる。
その栄光の王とはだれか。
万軍の主。これぞ、栄光の王。セラ(詩篇24:7−10)
この「門」が、イエス様の言われる「羊の門」のこと。聖書では、王と羊飼はいつも結びつけて表現されている(詩篇23篇参考)。実は、イエス様がピラトに「それでは、あなたは王なのですか」と聞かれて、「わたしが王であることは、あなたが言うとおりです。わたしは、真理のあかしをするために生まれ、このことのために世に来たのです。真理に属する者はみな、わたしの声に聞き従います」と答えられたのは、詩篇24篇での「栄光の王」のことで、真理とは、彼を信じる者が彼とともに甦り、この世界から連れ出されて彼に従って行くことを言っている。復活の日が日曜日であったのは偶然ではない。

