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ヨハネの福音書10章には、一見するとよく似たような内容の二つの例え話があるが(1節以降と7節以降)、よく読んで見ると、かなり違うことに気付く。
「まことに、まことに、あなたがたに告げます。羊の囲いに門から入らないで、ほかの所を乗り越えて来る者は、盗人で強盗です。しかし、門から入る者は、その羊の牧者です(ヨハネ10:1−2)。
これが最初の方の始まりの部分で、「盗人」とはサタンで、「羊の牧者」がキリストであることは、誰にも明らか。「門」のついた「羊の囲い」があって、その中には当然羊がいる。盗人は門以外の所から(羊を盗むために)入り込んでくるが、牧者は「門から入る者」。
門番は彼のために開き、羊はその声を聞き分けます。彼は自分の羊をその名で呼んで連れ出します。彼は、自分の羊をみな引き出すと、その先頭に立って行きます。すると羊は、彼の声を知っているので、彼について行きます(3-4節)。
おもしろいことに、門は牧者が自分で開くのではなく、「門番」が彼のために門を開く。この辺、普通に見る牧者とやや異なる点。注目すべきは、牧者が羊たちを「連れ出します」とか、「引き出す」ということば。羊たちは最初からその囲いの中に入れられていて、牧者が門から入ってくると、彼が羊たちを門の外へ連れ出して行く。
しかし、ほかの人には決してついて行きません。かえって、その人から逃げ出します。その人たちの声を知らないからです(5節)。
当然、これらの羊たちは自分の牧者をよく知っていて、自分たちが彼に属するものであることをよく知っている。
文脈によれば、この章全体がエルサレムにて起きた出来事を述べていることが分る。実は、その日は、週の初めの日曜日で、二日後には、ユダヤ人の宮きよめ(ハヌカ)の祭りが近づいていた。すでに大勢の人々がエルサレムに集まって来ていたが、神殿では、朝のいけにえが捧げられたばかりで、集まった礼拝者たちがみな詩篇24篇を読み上げていた(週の曜日にしたがって、ある詩篇を朗読するのが習慣)。
門よ。おまえたちのかしらを上げよ。
永遠の戸よ。上がれ。栄光の王が入って来られる。
栄光の王とは、だれか。強く、力ある主。戦いに力ある主。
門よ。おまえたちのかしらを上げよ。
永遠の戸よ。上がれ。栄光の王が入って来られる。
その栄光の王とはだれか。万軍の主。
これぞ、栄光の王。セラ(詩篇24:7−10)
この「門(永遠の戸)」が上に向いてその「かしら」をあげると、上から、栄光の王が「入って来られる」。イエス様は、この詩篇を背景に、ご自分の死と復活を通して生き返る人間たちの様子を例え話として語られた。羊の囲いとは、城壁に囲まれたイスラエルの町のことで、その中にいる住民たちはみな、盗人によって霊的に死んだ羊たち。それらの羊を生き返らせ、サタンの支配から「連れ出し」、良き牧場へ「引き出す」のが良き牧者であり、キリストである。つまり、彼に属する者は、サタンの圧制から、良き牧者の監督の下に、また死と恐怖の束縛から、いのちと自由の牧場に連れ出されて行く。
神は、私たちを暗やみの圧制から救い出して、愛する御子のご支配の中に移してくださいました。この御子のうちにあって、私たちは、贖い、すなわち罪の赦しを得ています(コロサイ1:13−14)。
これが「キリストにあって」の意味だが、これはちょうど、エゼキエルの時代、エルサレムの破壊の際に殺された大勢のユダヤ人たちのひからびた骨が、主のことばと、その息によって生き返らされ、大軍勢になって、その谷間から連れ出されていく話しと、その内容がよく似ている(エゼキエル37章)。一つの真理を、聖書のいろんな話しと結びつけて理解すれば、その意味がもっと分る

