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キリストのうちにこそ、神の満ち満ちたご性質が形をとって宿っています。そしてあなたがたは、キリストにあって、満ち満ちているのです。キリストはすべての支配と権威のかしらです(コロサイ2:9−10)。
新約聖書には、上に見るような「キリストにあって」、「彼にあって」、「この方にあって」といったような表現が何回も出てくる。特に、パウロが非常に好んで使った表現だが(160回以上出てくる)、そこには大切な真理が隠されている。上のみことばでは、まず、「神の満ち満ちたご性質」が、「キリストのうちに」宿っていることを述べて、次に、彼を信じる者も、同様に、「キリストにあって」、「満ち満ちている」ことを述べている。この「キリストにあって」という部分がなければ、私たちも未だに滅びの中にあった。
あなたがたは、このように主キリスト・イエスを受け入れたのですから、彼にあって歩みなさい。キリストの中に根ざし、また建てられ、また、教えられたとおり信仰を堅くし、あふれるばかり感謝しなさい(6-7節)。
それにしても、キリストを受け入れた者が「彼にあって歩む」とはどういう意味だろうか。
キリストにあって、あなたがたは人の手によらない割礼を受けました。肉のからだを脱ぎ捨て、キリストの割礼を受けたのです。あなたがたは、バプテスマによってキリストとともに葬られ、また、キリストを死者の中からよみがえらせた神の力を信じる信仰によって、キリストとともによみがえらされたのです(11-12節)。
キリストを受け入れ、彼にある者とされた者は、彼との契約の下に、彼に属する者とされた。割礼は契約のしるし(創世記17章)。私たちは「キリストの割礼」を受けて、彼の契約に中に入れられた。言い換えれば、それはキリストに付くバプテスマと同じ(ローマ6:3−5)。古いあなたはキリストとともに死んで葬られ、今生きているのは、キリストとともに甦ったあなた。その霊的現実によって、あなたは完全にキリストと一体化し、キリストに属する者とされた。それが、「キリストにあって」という表現の意味である。
人は、何に属するかによって、その人の本質が決まる。あなたが一つの国とその文化に属せば、あなたはその国の言語を話し、そこの習慣があなたの生活様式となる。キリストのことばを受け入れて彼に属する者になるか、サタンのことばを受け入れてサタンに属する者になるかは、あなたの選択にかかっている。エバは、サタンのことばを受けいれて善悪の知識の木から取って食べた。アダムも、エバのことばを受け入れて彼女に従った。その時から、人がサタンに属する者になってしまった。だから、パウロは次のように忠告している。
あのむなしい、だましごとの哲学によってだれのとりこにもならぬよう、注意しなさい。それは人の言い伝えによるもの、この世の幼稚な教えによるものであって、キリストによるものではありません(8節)。
「むなしい、だましごとの哲学」、「人の言い伝え」、「この世の幼稚な教え」はみな、「キリストによるもの」ではない。もしそれらを受け入れるならば、それを語っているサタンに属する者になる。
人はみな、このどちらのことばを受け入れるかの選択を迫られる。それはテストであり、サタンからの誘惑でもある。イエス様も、私たち同様、サタンの誘惑を受けられた。
そこで、悪魔はイエスに言った。「あなたが神の子なら、この石に、パンになれと言いつけなさい。」イエスは答えられた。「『人はパンだけで生きるのではない』と書いてある(ルカ4:3−4)。」
イエス様がサタンのことばを拒否して神のことばにしがみつくことによって、常に父なる神との一致の中で生きられたように、私たちも、キリストのことばを私たちの中に住まわせ、常に彼にとどまるべき。キリストにある私たちは、もはや彼を離れては、何もすることができないからだ(ヨハネ15:5)。

