ダヴァール神の国
ダヴァール神の国
Davar Kingdom of God
創造の神 No.20 Sat@1
1 hour 6 minutes Posted Aug 24, 2013 at 9:09 am.
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イエスは言われた。「わたしは、苦しみを受ける前に、あなたがたといっしょに、この過越の食事をすることをどんなに望んでいたことか。あなたがたに言いますが、過越が神の国において成就するまでは、わたしはもはや二度と過越の食事をすることはありません(ルカ22:15−16)。」
今回は、イエス様が弟子達と最後に食事をされた、いわゆる、最後の晩餐の話しから、その食事の意味を、人類にもたされた創造の神の御業として学んでいく。この話しを、今回は、すでに学んだ箴言9章の箇所を頭に置いて読んでいく。
知恵は自分の家を建て、七つの柱を据え、
いけにえをほふり、ぶどう酒に混ぜ物をし、その食卓も整え、
小娘にことづけて、町の高い所で告げさせた。
「わきまえのない者はだれでも、ここに来なさい」と。
また、思慮に欠けた者に言う。
「わたしの食事を食べに来なさい。
わたしの混ぜ合わせたぶどう酒を飲み、
わきまえのないことを捨てて、生きなさい。
悟りのある道を、まっすぐ歩みなさい」と(箴言9:1−6)。
世界を創造した「知恵」が、自分が準備した「食事(パン)」を食べることと、「ぶどう酒」を飲みに来るように叫んでいる。この食事が、イエス様の最後の晩餐、すなわち、私たちが今日、教会で行う聖餐式である。それは、破壊の世界に生活する私たちを新しく造り直し、人類に創造の業をもたらすためのものであった。
まず誰もが知らなくてはならないことは、旧約における、イスラエルの民が神にささげた、動物のいけにえの意味である。いけにえとは、本来、私たちが自分の罪やけがれのために受けるべき死のさばきを、いけにえが代わりに受けて、私たちの身代わりとして死んでいくためのもの。そのためには、そのいけにえとなる動物がまだ生きている時に、私たちの罪や汚れが、その身代わりになってくれるいけにえの方に移っていくことが必要である。したがって、律法では、罪を犯したり、汚れを持っている人間が、いけにえを殺す前に、その上に手を置くことが定められている。例えば、次のようなものである。
もし油そそがれた祭司が罪を犯し、民が咎を覚えるなら、その人は自分の犯した罪のために、傷のない若い雄牛を、罪のためのいけにえとして主にささげなければならない。その雄牛を会見の天幕の入口の所、主の前に連れて来て、その雄牛の頭の上に手を置き、主の前にその雄牛をほふりなさい(レビ4:3−4)。
キリストは、まさしく、このいけにえとして私たちのために死なれたが、彼が最後の晩餐の冒頭で言われたことばに注目。
わたしは、苦しみを受ける前に、あなたがたといっしょに、この過越の食事をすることをどんなに望んでいたことか(ルカ22:15)。
「苦しみを受ける前」とは、十字架で死なれる前のこと。まさに、この晩餐の時に、人類の罪と汚れが彼の方に移っていった。その晩餐の場所にいた弟子達は、彼らと同じようにキリストを信じるようになる人々のすべてを代表している。わたしやあなたも、時間を越え、霊においてその場にいて、彼の血を飲み、からだを食べた。さらに注目すべきは、彼の次のような表現。
これは、あなたがたのために与える、わたしのからだです。わたしを覚えてこれを行いなさい(19節)。
「わたしを覚えてこれを行いなさい」ということばの、「わたしを覚えて」とは、いけにえとなられたキリストを記念して、つまり、契約のシンボルとして行いなさい、という意味。これは、「安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ(出エジプト20:8)」という戒めと同じ意味の表現。大事なのは、「これを行いなさい」、つまり、「これを,行い続けなさい」という部分。それを行う時、彼が十字架に架かられる前に持たれた、その一回の聖餐と同じことが、時を越えた、今の私たちにも起きる。その時、彼の弟子達たちの罪と汚れがイエス様に移っていったように、私たちの罪と汚れが彼の方に移り、それらから私たちが清められ、神の子どもとして、みことばに約束されている、キリストにある祝福が全部私たちに与えられる。言い換えれば、私たちはこの聖餐によってキリストと一体化し、私たちの罪と汚れは彼の方に行き、彼の聖さ、権威や力が私たちの方に来る。これが、聖餐式の意味であり、効力である。