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箴言は、ヨブ記、伝道者の書と同様、知恵文学と呼ばれるものの代表。他には、詩篇の中にも、知恵文学の性質を持った詩が幾つかある(例えば、1,34,37篇)。どういった内容で、どういったスタイルのものが知恵文学なのか、知っていると便利。知恵文学が、どのような歴史的背景のもとに、どの時代に書かれたのかは明確ではない。箴言1:1、10:1(伝道者1:1、雅歌1:1参考)によれば、本来ソロモンに由来するとしているが、25:1にあるように、後の時代になって、ソロモンの時代の文芸を憧れる復興的運動の結果、今の形になったものもある。また、エジプトを初め、古代中近東の各地で、ヘブル人の知恵文学に似たものが多く存在しており、聖書の知恵文学がその影響を受けていることは当然である(30:1、31:1参照)。
この9章の箇所の直前、8:22-31のような箇所に親しんでおくと良い。この知恵は世界の創造の前から存在していて、彼女こそがこの世界を「組み立てる者」であった。言い換えれば、知恵は、自分の家を組み立てる大工のようだと言う。事実、聖書は、幕屋などを神の定めのとおりに制作する技術を、神の与える大切な知恵の一つとして語っている。
幸いなことよ。
日々わたしの戸口のかたわらで見張り、
わたしの戸口の柱のわきで見守って、
わたしの言うことを聞く人は(8:34)。
知恵が自分の建てた家の「戸口のかたわらで」、「戸口の柱のわき」で、そこを通りかかる人に、「わたしに聞き従え」と呼びかけているという。9章にも同じように、知恵が人間たちに呼びかけている様子が出て来る。
知恵は自分の家を建て、七つの柱を据え、
いけにえをほふり、ぶどう酒に混ぜ物をし、その食卓も整え、
小娘にことづけて、町の高い所で告げさせた。
「わきまえのない者はだれでも、ここに来なさい」と。
また、思慮に欠けた者に言う。
「わたしの食事を食べに来なさい。
わたしの混ぜ合わせたぶどう酒を飲み、
わきまえのないことを捨てて、生きなさい。
悟りのある道を、まっすぐ歩みなさい」と(箴言9:1−6)。
ここで注目してほしいのは、知恵が「わたしの食事を食べに来なさい」と勧めていること。この「食事(lehem)」とは、特にパンのことで、食事を食べるとは、そのパンを食べることを指す。その食卓にはもう一つ、「ぶどう酒」がある。これは、クリスチャンにとっては、キリストによる新しい契約、そのパンとぶどう酒、つまり、彼の肉と血をほのめかしているようで、非常におもしろい。七つの柱とは、人類に与えられた七つの契約のことにも取れる。それらは、地上を走る、七つの大通りのようで、一つの通りから次の通りへと大きく方向を変えながら、人類の救いの最終目的地へと導いている。その最後に来る大通りが、キリストの契約。その大通りにある、町の高い所では、この知恵が大きな声で「わたしの食事を食べに来なさい」と叫んでいる。キリストの福音のことだ。
もう一つの見所は、この知恵の叫びと、13節以下の「愚かな女」の叫びとの比較。この女も最初は、正しい知恵の小娘と同じように、「わきまえのない者はだれでもここに来なさい」と叫んでいる所に注目。しかし、最後の結末に来ると、その違いが明らかになる。
愚かな女は、騒がしく、わきまえがなく、何も知らない。
彼女は自分の家の戸口にすわり、町の高い所にある座にすわり、
まっすぐに歩いて行く往来の人を招いて言う。
「わきまえのない者はだれでもここに来なさい」と。
また思慮に欠けた者に向かって、彼女は言う。
「盗んだ水は甘く、こっそり食べる食べ物はうまい」と。
しかしその人は、 そこに死者の霊がいることを、
彼女の客がよみの深みにいることを、 知らない(13−18節)。

