Show notes
イザヤ55章に見る、神による創造の行き方をするために、私たちのすべきことは、神のことばに耳を傾け、神のもとに出て行くことである。
耳を傾け、わたしのところに出て来い。
聞け。そうすれば、あなたがたは生きる。
わたしはあなたがたととこしえの契約、
ダビデへの変わらない愛の契約を結ぶ(イザヤ55:3)。
盗人であり、破壊者であるサタンのもとに出て行けば、破壊が起きる。しかし、そこから、創造の神のところに帰って来れば、創造の業が起きる。上のみことばは、「耳を傾け、わたしのところに出て来い」と語る。そうすれば、あなたは生きて、永遠に変わることのない、神の愛の契約の中に入れられる。もう死ぬことはない。
ところで、神のところに出て行くとは、どういう意味だろうか。神は霊である。だから、彼のところに出て行くことも、霊においてすることであるはず。いくら教会という建物に足を運んでも、神のもとに出て来たとは限らない。単に礼拝や祈祷会の場に自分の体を置いていさえすれば良いというわけではない。神のもとに出て来ることの意味を知るために、ルカの福音書の放蕩息子の話しを見てみよう。
父から自分財産の分け前を受けて、それを異国の地で湯水のように使い果たしてしまった弟息子は、食べるにも困り、破壊の生活の中に落とされていった。その時、彼は我に帰って次のように言った。
立って、父のところに行って、こう言おう。
「お父さん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。
もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。雇い人のひとりにしてください(ルカ15:18−19)。」
「父のところに行って」ということばに注目。そもそも問題が起きて、破壊の中に落ちていったのは、彼が自分の父のもとを離れたからであった。彼はその間違いに気が付いた時、父のもとに行き、素直に自分が間違っていたことを父の前で認めようと決心した。彼は、父に、「私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました」と言った。人は、他人に対して罪を犯す以前に、天の神に対して罪を犯す。人に迷惑をかけていなければだいじょうぶというのは、人との相対的倫理観。聖書は、初めから絶対的倫理観を教える。何を善とし、何を悪とするかは、神の定める絶対的真理による。人の相対的関係においてのみ善悪を図るならば、それ自体が、善悪を自分で決め、善悪の知識の木から取って食べていることになる。人は、他人に罪を犯す前に、自分を造って下さった神に対して罪を犯している。しかし、そんな罪人が、キリストにあって完全に神の義とされるのは、全くの恵みによる。これが上で言う、「とこしえの契約」、「ダビデへの変わらない愛の契約」である。
こうして彼は立ち上がって、自分の父のもとに行った。ところが、まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけ、かわいそうに思い、走り寄って彼を抱き、口づけした(20節)。
自分の罪を認めた人間に対する、神様の恵み深さは驚くべきもの。エレミヤ書に次のようなみことばがある。
背信の女イスラエル。帰れ。−−主の御告げ—
わたしはあなたがたをしからない。わたしは恵み深いから。−−主の御告げ—
わたしは、いつまでも怒ってはいない。
ただ、あなたは自分の咎を知れ(認めよ)(エレミヤ3:12−13)。
これは、ヤーベの神が偶像礼拝に走ってしまったイスラエルに対して語られたことば。「帰れ」と、「ただ、あなたは自分の咎を知れ(認めよ)」という表現に注目。帰って来れば、「わたしはあなたがたをしからない」と言われる。そこが人間になかなか理解できないこと。人は、自分が罪を犯したことを知っているので、神に裁かれることを恐れて、帰って来ようとしない。恐れないで、ただ自分の咎を認めるだけだ。神はあなたを赦したいと誰よりも願っておられる。もし、罪を止めて良い人間になってから、戻って行こうと思うならば、その日は永遠に来ない。いけにえはすでに捧げられた。神はもう怒ってはおられない。その愛のふところに飛び込んで行くだけである。

