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「子を産まない不妊の女よ。喜び歌え。 産みの苦しみを知らない女よ。喜びの歌声をあげて叫べ。 夫に捨てられた女の子どもは、夫のある女の子どもよりも多いからだ」と主は仰せられる(イザヤ54:1)。
これは、エルサレムに関する預言のことばである。ヘブル語では、町(’ir)という言葉が女性詞なので、ここでは、エルサレムの町を妻、その夫をヤーベの神に例えて語られている。私たちの感覚からして、ちょっと考えにくいので、頭を柔らかくして瞑想する必要がある。ヤーベとエルサレムが夫婦ならば、彼らから子供たちが生まれることにもなる。ところが、上のみことばによれば、この女は「不妊の女」だと言う。しかも、彼女のことを「夫に捨てられた女」とも呼んでいる。
「あなたの夫はあなたを造った者、その名は万軍の主。 あなたの贖い主は、イスラエルの聖なる方で、全地の神と呼ばれている。 主は、あなたを、夫に捨てられた、心に悲しみのある女、 たとえ見捨てられても(忘れられない)若い時の妻と呼んだ」とあなたの神は仰せられる(私訳、5-6節)。
「夫に捨てられた」とは、離婚されたという意味。理由はもちろん、彼女の不品行、夫に対する不忠実さのため。しかし、その妻を創造された夫は、若い時の自分の妻を忘れることができず、彼女を贖い、再び、ご自分の妻とされると言う。
「わたしはほんのしばらくの間、あなたを見捨てたが、大きなあわれみをもって、あなたを集める。怒りがあふれて、ほんのしばらく、わたしの顔をあなたから隠したが、永遠に変わらぬ愛をもって、あなたをあわれむ」とあなたを贖う主は仰せられる(7-8節)。
エルサレムは、天と地を繋ぐ軸、つまり、神のおられる霊の世界と、人間の住む世界を結ぶ接点にあたる。ユダヤ人は、そこをつかさどる重要な祭司としての務めを持っていたが、偶像に走ってしまい、祭司の務めから解雇されてしまった。罪を犯す前のエデンの園と、そこに住んだアダムとエバが同じ役目を持っていた。エルサレムはエデンの園に当たる。そこから、まことの人類の子孫たちがこの地上を満たし、全地を支配していくことが目的であったが、罪のせいで、それが果たせなかった。同じことが目で見るエルサレムでも起きる。アダムとエバがエデンの園から追放されたように、ユダヤ人たちもエルサレムから追放される。しかし、それで終わりではない。神の「永遠に変わらぬ愛」がすべてを完了する。
「このことは、わたしにとっては、ノアの日のようだ。わたしは、ノアの洪水をもう地上に送らないと誓ったが、そのように、あなたを怒らず、あなたを責めないとわたしは誓う。たとい山々が移り、丘が動いても、わたしの変わらぬ愛はあなたから移らず、わたしの平和の契約は動かない」とあなたをあわれむ主は仰せられる(9-10節)。
ここに、創世記8:21の接続詞、concessive ki(「...にもかかわらず」の意味)が非常に大切になる。すべてが、神の愛、あわれみ、恵みによる。
あなたの天幕の場所を広げ、あなたの住まいの幕を惜しみなく張り伸ばし、綱を長くし、鉄のくいを強固にせよ。あなたは右と左にふえ広がり、あなたの子孫は、国々を所有し、荒れ果てた町々を人の住む所とするからだ(2-3節)。
この天幕は、神の住われる宮のことで、エルサレムがその役目を果たしていた。その回復、すなわち新しい創造の時が来ることを預言している。注目すべきは、「あなたの子孫」ということば。次のようにも言っている。
あなたの子どもたちはみな、主の教えを受け、あなたの子どもたちには、豊かな平安がある(13節)。
この真理に目を付けたパウロは、キリストにある者たち、すなわち、律法に仕える者ではなく、約束による子供たちのことに関して、次のように説明している。
このハガルは、アラビヤにあるシナイ山のことで、今のエルサレムに当たります。なぜなら、彼女はその子どもたちとともに奴隷だからです。しかし、上にあるエルサレムは自由であり、私たちの母です(ガラテヤ4:25−26)。

