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ああ。渇いている者はみな、水を求めて出て来い。
金のない者も。さあ、穀物を買って食べよ。
さあ、金を払わないで、穀物を買い、
代価を払わないで、ぶどう酒と乳を買え(イザヤ55:1)。
ここにも、神が人類にして下さった創造の業の大切な一面を見る。水がなくて、作物の採れない状態から、水が涌き出て、創造の業が起きるのは、創世記2章のタイプ2に当たる創造の業。穀物を買って(shavar)食べるのだが、金を払わない。金とは銀(keseph)のことで、実は、これは創世記のヨセフと兄弟の話しが裏にあることを知っていると、もっとよく分る。ヨセフは穀物を買いにエジプトに来た兄弟たちに、穀物とともにその銀も全部返した。彼らは、文字通り、金を払わないで穀物を買ったことになる。兄弟に売られたヨセフは、やがて来るメシアを予表している。
なぜ、あなたがたは、食糧にもならない物のために金を払い、
腹を満たさない物のために労するのか(2a説)。
この辺から、口に入る食糧を越えた、霊的なこともほのめかして話してくる。人は、多くの金や時間を費やして、自分を満足させようとするが、結局、本当に満足することなく死んで行く。では、実際、どうしたら金を払わないで食べることができるのか。
わたしに聞き従い、良い物を食べよ。
そうすれば、あなたがたは脂肪で元気づこう(2b節)。
「聞き従う」と言うより、注意してよく聞き、理解すること(「聞く(shama’)」という動詞が、命令形と不定詞の二回使われたもので、強調を表す)。「脂肪」は、豊かさのシンボル。
耳を傾け、わたしのところに出て来い。
聞け。そうすれば、あなたがたは生きる。
わたしはあなたがたととこしえの契約、
ダビデへの変わらない愛の契約を結ぶ(3節)。
「耳を傾け」、「聞け(shama’)」と何回も同じことを言っている。それと並べて、「わたしのところに出て来い」という命令に注目。これはどういう意味だろうか。この時、民は、バビロン捕囚の最中。「わたしのところに出て来い」とは、悔い改めて、神のもとに戻ってくることを指す。
この意味が一番よく分る簡単な話しがある。放蕩息子の例え話だ。
しかし、我に返ったとき彼は、こう言った。「父のところには、パンのあり余っている雇い人が大ぜいいるではないか。それなのに、私はここで、飢え死にしそうだ(ルカ15:17)...
この息子は、自分の家にいた時の豊さと、自分の父の気前の良さを思い出した。父の家では、大勢の雇い人でさえ、パンが有り余る生活をしている。そして、自分はその息子であったが、父に背き、その財産を使い果たしてしまった。
立って、父のところに行って、こう言おう。『お父さん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。雇い人のひとりにしてください。』」こうして彼は立ち上がって、自分の父のもとに行った(18-20a節)。
「立って、父のところに行って」と、「彼は立ち上がって、自分の父のもとに行った」いうところに注目。これを悔い改めと言う。彼は、まさしく、自分の父、神のところに出て行った。
ところが、まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけ、かわいそうに思い、走り寄って彼を抱き、口づけした。息子は言った。「お父さん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません(20-21節)。」
ここから、この息子の言動に関する記述が止まる。そして、この後に注目して、よく瞑想するとよい。
ところが父親は、しもべたちに言った。『急いで一番良い着物を持って来て、この子に着せなさい。それから、手に指輪をはめさせ、足にくつをはかせなさい。そして肥えた子牛を引いて来てほふりなさい。食べて祝おうではないか(22−23節)。
この放蕩息子、この時、どんな反応を示したのだろうか。一番良い着物も、指輪も、くつも、そして肥えた子牛の料理も、それらを拒否して、受けなかっただろうか。とんでもない!受けたはず。しかも、金は一銭も払わずに...え!?

