ダヴァール神の国
ダヴァール神の国
Davar Kingdom of God
創造の神 No.16 Sat@1
1 hour 6 minutes Posted Jul 20, 2013 at 9:09 am.
0:00
1:06:32
Download MP3
Show notes
私たちの見たこと、聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたも私たちと交わりを持つようになるためです。私たちの交わりとは、御父および御子イエス・キリストとの交わりです(1ヨハネ1:3)。
ここで言う「交わり」とは、「御父および御子イエス・キリストとの交わり」のことである。しかし、この交わりがなければ、「私たちと交わりを持つ」ことはできない。「私たちと交わりを持つ」とは、キリストを信じる者どうしの交わりのこと。交わりとは、愛の交わりのことで、互いに愛し合うこと、キリストによる新しい戒めを守ることである。
この真理を頭に置いてこの箇所を読み直してみると良い。1:5に「光」のことが出てくる。作者は、信者が「光の中にいる」ことを、上で述べた意味での「交わりを持つ」ことと同一化して述べている。つまり、「光の中にいる」者は、「御父および御子イエス・キリストとの交わり」を持ち、キリストによる新しい戒めを守って互いに愛し合い、兄弟姉妹との交わりを持っている。逆に、「やみ」の中にいる者は、神を知らず、神との交わりを持たず、互いに愛し合うことをしない。したがって、互いに愛し合うかどうかを見れば、神との交わりがあるかないかが分り、その人が光の中にいるのか、やみの中にいるのかが分るということだ。
もし私たちが、神と交わりがあると言っていながら、しかもやみの中を歩んでいるなら、私たちは偽りを言っているのであって、真理を行ってはいません。しかし、もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます(きよめています)(6-7節)。
最後の動詞「きよめます」は、「きよめています」とも訳せる。注意しなければならないのは、ここで言う罪の赦しは、イエス・キリストを心に受け入れた時に受ける罪の赦し(the remission of sins)のことを言っているのではない(エペソ1:7、コロサイ1:14)。その意味での罪の赦しは、キリストの死によって、彼を信じる者に一瞬にして与えられるもので、過去、現在、また将来犯すかもしれない罪の全部がすでに赦されている(ローマ6:7−10、ヘブル7:27)。それは、キリストにある者の霊的な現実であって、この地上でどんなことがあっても変わらない。しかし、長年この地上に生きた者の魂には、この世から学んだ悪い考えが充満している。それらは、みことばを学ぶことによって一つ一つ、真理と取り替えられることによって、消されていくものだが、一晩のうちには消えない。このプロセスを、聖書は、魂の救い(ヤコブ1:21)、心の一新(ローマ12:2)、あるいは、きよめ(ヨハネ15:3)と呼ぶ(正確には、聖書の言う「きよめ」はもっと霊的なもの)。したがって、キリストを受け入れた後も、クリスチャンはそのプロセスの中で罪を犯してしまう。しかし、忘れてはならないのは、それらの罪はすでに赦されている。ただ、自分の行いが真理に反したことであり、それが罪であったことを知らなくては、それを悔い改め、清められることはできない。そのために、その罪を告白する必要がある。それが以下のことばの意味である。
もし、罪はないと言うなら、私たちは自分を欺いており、真理は私たちのうちにありません。もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます(8-9節)。
「すべての悪から私たちをきよめてくださいます」という表現に注目。そこがポイントである。
人の犯す罪はみな、「互いに愛し合いなさい」という命令を破ることと同じ。神の愛が人の中に完全に働き、互いに愛し合う時、罪を犯すことは絶対にない。罪はやみを生み出し、愛は光を生み出す。やみは破壊の業で、光は創造の業である。人が愛することを止め、やみの中に生き始める時、破壊の業が起きる。逆に、キリストを信じ、愛し始める時、光の中に生き始めて、創造の業が起きる。創造は、神の愛による産物である。愛がある所には創造が起きる。愛がなければ、破壊が起きる。神がこの世を愛し、ご自分のひとり子を与えて下さったのは、私たちをやみの世界から救い出し、光の中に入れるためであった。破壊から創造に移し替えるためであった。したがって、すでに救われた私たちが、やみの中に生きることはもう不可能である。