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知恵は、これを堅く握る者にはいのちの木である。
これをつかんでいる者は幸いである(箴言3:18)。
人がエデンの園を追放され、いのちの木へアクセスを失った時から、この世界に死が入ってきた。神に創造された生き物にとって、死は破壊の終着点であり、いのちの木へのアクセスを失ったことによる。ところが、上のみことばに、そのいのちの木へのアクセスが再び私たちに提供されている。そのいのちの木とは、「知恵」である。この知恵は、神のことばであり、最終的には、イエス・キリストというお方である。彼の死と復活によって、私たちが再びいのちの木から自由に取って食べることができるようになった。キリストにあって、死は勝利に飲まれ、みな新しく創造された。
しかし、それは自動的にすべての人間に起きることではない。しかも、同じキリストにある者でも、いのちの木の実を沢山食べる人もあれば、一回食べて、長い間、食べないままでいる人もいる。上のことばには、「これを固く握る者には」という条件がついている。「これ」とは「知恵」のこと、それを「固く握る」ことが必要。次のようにも言っている。
わたし(知恵)を愛する者を、わたしは愛する。
わたしを熱心に捜す者は、わたしを見つける(8:17)。
知恵は、求めれば求めるほど、雪だるまのように増し加わるが、これを求めなければ、持っている知恵も解け去り、どんどん小さくなっていく。箴言は次のようにも勧めている。
あざける者を戒める者は、自分が恥を受け、
悪者を責める者は、自分が傷を受ける。
あざける者を責めるな。おそらく、彼はあなたを憎むだろう。
知恵のある者を責めよ。そうすれば、彼はあなたを愛するだろう。
知恵のある者に与えよ。彼はますます知恵を得よう。
正しい者を教えよ。彼は理解を深めよう(9:7−9)。
ここでは、知恵を求めない者に知恵を教えようとすることのむなしさを歌っている。教えるなら、知恵をすでに持っていて、それを求めてくる人だけに教えるべき。これは本当に真理。知恵を「あざける者」は、知恵の価値の分らない人。価値がないと思われるものを愛して求めることは誰もできない。知恵のない人に「知恵を求めよ」と言っても無理。では、どうしたら良いのか。もう希望がないのか。
むちと叱責とは知恵を与える。
わがままにさせた子は、母に恥を見させる(29:15)。
「むちと叱責」は、知恵のない者に対する愛の助け。人が知恵を求めないのは、人にとって、「知恵」よりももっと価値があるように見える物が沢山、この世にあるからである。世にあるもの、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢などによって目が散り、本当に価値あるものが見えてこない。霊的な集中力を失い、サタンに騙され、価値のないものを求めて生きていく。上で言う「むちと叱責」は、それを正しい方向に向かせ、人間たちに霊的な集中力を与える。その集中力を、実は、「聖さ」という。
なぜなら、肉の父親は、短い期間、自分が良いと思うままに私たちを懲らしめるのですが、霊の父は、私たちの益のため、私たちをご自分の聖さにあずからせようとして、懲らしめるのです(ヘブル12:10)。
このような聖さ、つまり、霊的集中力は、イエス様のこの地上での生き方の中にその模範を見る。特に、彼の十字架での死の直前に、それが顕著に表されている。弟子達との違いに目を付けて、福音書をよく読んでみるとよい。
すると、御使いが天からイエスに現れて、イエスを力づけた。イエスは、苦しみもだえて、いよいよ切に祈られた。汗が血のしずくのように地に落ちた。イエスは祈り終わって立ち上がり、弟子たちのところに来て見ると、彼らは悲しみの果てに、眠り込んでしまっていた。それで、彼らに言われた。「なぜ、眠っているのか。起きて、誘惑に陥らないように祈っていなさい(ルカ22:43−46)。」
十字架で死ぬために生まれ、その目的が達成されようとする時、周りは、ありとあらゆる雑音と邪魔の波に満ちていた。敵からの攻撃はもちろん、ご自分の愛された弟子にも裏切られ、みな彼を捨てて逃げて行った。すべてが破壊に向かっていく中、その霊的集中力を失うことなく、信仰の戦いを勇敢に戦い、最後まで、その聖さを保たれた。それには、全く頭が下がる。

