ダヴァール神の国
ダヴァール神の国
Davar Kingdom of God
創造の神 No.13 Sat@1
1 hour 6 minutes Posted Jun 29, 2013 at 9:09 am.
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さて、全地は一つのことば、一つの話しことばであった。そのころ、人々は東のほうから(東のほうへ)移動して来て、シヌアルの地に平地を見つけ、そこに定住した。彼らは互いに言った。「さあ、(われわれは)れんがを作ってよく焼こう。」彼らは石の代わりにれんがを用い、粘土の代わりに瀝青を用いた。そのうちに彼らは言うようになった。「さあ、われわれは町を建て、頂が天に届く塔を建て、名をあげよう。われわれが全地に散らされるといけないから(創世記11:1−4)。」
この話し、「バベルの塔」の話しとしてよく知られている。非常にコンパクトでまとまりがある。全体がchiastic、要するに、人間たちのしたことと、神様のなさったことが対照的に書き表してある。最初に、「一つのことば」で集まったのが、最後は、多くのことばに散らされた。彼らは「散らされる(プーツ)といけないから」と言ったが、最後は、そのとおりに「散らされた(プーツ)。」また、最初、地上から上に向かって天に届こうとした人間たちに対して、神が天から下に向かって降りて来られた。さらに、最初、人間たちが互いに「さあ、われわれはれんがを作って...」とか、「さあ、われわれは町を建て...」と言ったのに対して、神様が「さあ、われわれは降りて行って...」と言って応答されたことなど。よく味わって、何回も読み直すと良い。
そのとき主は人間の建てた町と塔をご覧になるために降りて来られた。主は仰せになった。「彼らがみな、一つの民、一つのことばで、このようなことをし始めたのなら、今や彼らがしようと思うことで、とどめられることはない。さあ、(われわれは)降りて行って、そこでの彼らのことばを混乱させ、彼らが互いにことばが通じないようにしよう。」こうして主は人々を、そこから地の全面に散らされたので、彼らはその町を建てるのをやめた(5-8節)。
そして、最後は、次のような洒落(言葉の発音が似てる)で結論付けている。
それゆえ、その町の名はバベルと呼ばれた。主が全地のことばをそこで混乱させた(バラル)から、すなわち、主が人々をそこから地の全面に散らしたからである(9節)。
神の戸(門)という意味での「バベル」の町で、神様が彼らのことばを「バラル(混乱)」させたという。おひとりの神が、複数の「われわれ」を主語として語られているのは、創世記1:26の人間の創造の時と同じ。主が天使たちを引き連れて降りて来られたように聞こえる。そのあたり、やや、おとぎ話的に聞こえるが、不思議に思ってはならない。当然のことながら、神様は、降りて来られなくても人間たちのしていることは全部ご存知。これは、人間たちの世界に神が介入されたことを示している。言語が散らされたのは、一日のうちに起きたというより、長い期間の間に散らされたと考えた方が良い。言語は長い期間の間に変化して来るが、それは、神の霊の働きによる。言語は非常に霊的なもの。言語の違いから散らされた人間達が、ペンテコステの日に、逆に、キリストにあって一つに集められた。
バベルの塔は、人間が神に近づこうとする願いの表れ。その願い自体は、決して悪いものではない。聖書に良く出てくる樫の木も、幕屋の上に上る火の雲も、それと同じ役目を果たした。もっと言えば、キリストが天から下られたのも、私たちが彼を通して神に近づくためであった。
私たちはこのキリストにあり、キリストを信じる信仰によって大胆に確信をもって神に近づくことができるのです(エペソ3:12)。
いけないのはその方法と動機である。まず、物理的に天に近づくからといって、神に近くなるわけではない。もちろん、そのような信仰も神はお使いになるが、彼らが知らなかったのは、人が神に近づき、彼とコミュニケートできるのは、実は、人の中に住む霊を通してのみであるということ。そして、彼らの一番の間違いは、人間の力や働きを頼る生き方や動機である。それは、神に対抗した高ぶりである。煉瓦を焼いて建物を建てるという、当時の新しいテクノロジーによって、自分たちが何でもできるかのように錯覚した。「さあ、われわれはれんがを作って...」という表現の中にそれがよく表されている。それは、同じように「われわれ...」と言われる神に対抗しているようだ。確かに、人は神のかたちとして神の創造の業を行っていく者であるが、それが、神なくして自分たちの力によってできるという意味ではない。人は、あくまで神の被造物であり、器にしか過ぎない。そして、この時、神によって禁じられ、中止されたことが、キリストにあって実現されたことを知ることは非常に大切。すべて、神が私たちのためにしてくださった。そこに意味があり、それこそが神が神であられる理由である。すべてが神の栄光である。
主が家を建てるのでなければ、建てる者の働きはむなしい(詩篇127:1)。