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謙遜と柔和の限りを尽くし、寛容を示し、愛をもって互いに忍び合い、平和のきずなで結ばれて御霊の一致を熱心に保ちなさい(エペソ4:2−3)。
最後の「御霊の一致を熱心に保ちなさい」という部分に注目。一致だけのことを言うならば、人はいろんな種類の一致をすることができる。趣味の一致、思想の一致、欲の一致など。ここの場合は、「御霊の一致」、つまり霊的な一致、同じ神の霊にある一致である。実は、この話しの裏には、創世記11章のバベルの塔の話しが流れている。
さて、全地は一つのことば、一つの話しことばであった。そのころ、人々は東のほうから(東のほうへ)移動して来て、シヌアルの地に平地を見つけ、そこに定住した(創世記11:1−2)。
新改訳の「東のほうから」は誤訳で、「東のほうへ」とすべき。聖書は、アダムとエバがエデンの園から追放されて、人々が東のほうへ移動して行ったことを明記している。カインも(4:16)、また、洪水後のセムの子孫たちも。セムの子孫でも、特にヨクタンの子孫たちが、「東の高原地帯」に定住したことと(10:30)、その時、ヨクタンとペレグの二人の兄弟の子孫たちが、地理的に分離したことを述べている(25節)。このことは、セム語が、より古いアッカド語やアッシリア語の東セム語と、比較的新しい、アラブ語、ヘブル語、アラム語のような西セム語に分かれることにも関係しているかもしれない。
彼らは互いに言った。「さあ、れんがを作ってよく焼こう。」彼らは石の代わりにれんがを用い、粘土の代わりに瀝青を用いた。そのうちに彼らは言うようになった。「さあ、われわれは町を建て、頂が天に届く塔を建て、名をあげよう。われわれが全地に散らされるといけないから(3−4節)。」
「われわれ」という複数の主語に注目。団体のレベル犯す罪のことを示している。彼らは、「全地に散らされるといけないから」と言って、一致をもって、一致のために、「町を建て、頂が天に届く塔を建て」ようとした。その塔は、本当に天に届いただろうか。
そのとき主は人間の建てた町と塔をご覧になるために降りて来られた。主は仰せになった。「彼らがみな、一つの民、一つのことばで、このようなことをし始めたのなら、今や彼らがしようと思うことで、とどめられることはない。さあ、降りて行って、そこでの彼らのことばを混乱させ、彼らが互いにことばが通じないようにしよう(5-7節)。」
皮肉的にも、神様はこの町と塔を見るために「降りて来られた。」彼らは、自分たちが「頂が天に届く」ような塔を建てることができるという、大きな勘違いをしていた。ここで特に、「一つの民、一つのことば」という表現に注目。彼らがこの時求めても得ることのできなかったものを、このあと時が来て、神ご自身が人類にお与えになった。
からだは一つ、御霊は一つです。あなたがたが召されたとき、召しのもたらした望みが一つであったのと同じです。主は一つ、信仰は一つ、バプテスマは一つです。すべてのものの上にあり、すべてのものを貫き、すべてのもののうちにおられる、すべてのものの父なる神は一つです(エペソ4:4-6節)。
「からだ」とは、キリストのからだ、すなわち教会のこと。その足はこの地上にあり、頭は天の父なる神の右の座にある。したがって、その背丈は天に届くもので、地上と天を結ぶ機関である。そのからだの存在がゆえに、私たちは神に近づき、祈り、礼拝を捧げることができる。また、神様もそのからだを通して、創造の御業をなさる。このからだを建て上げるために、キリストは、天から地の低い所に下られ、再び「高い所」に上られた。
そこで、こう言われています。「高い所に上られたとき、彼は多くの捕虜を引き連れ、人々に賜物を分け与えられた。」この「上られた」ということばは、彼がまず地の低い所に下られた、ということでなくて何でしょう。この下られた方自身が、すべてのものを満たすために、もろもろの天よりも高く上られた方なのです(8-10節)
要するに、人が自分の愚かさがゆえに建てようとしたが、失敗に終ったバベルの塔に対して、神様がお建てになったのは、キリストのからだ、すなわち教会であった。
こうして、キリストご自身が、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を伝道者、ある人を牧師また教師として、お立てになったのです。それは、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるためであり、ついに、私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです(11-13節)。
「建て上げる」とか、「身たけにまでに達する」という表現に注目。

