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こういうわけで、私パウロ、あなたがた異邦人のためのキリスト・イエスの囚人—(私訳、エペソ3:1)
これが文字通りの訳で、実は、この節、主語だけで動詞がない。やっと、この1節の「私パウロ」の主語に戻って、その動詞とともに、話しが続いて行くのは、14節。
こういうわけで、私はひざをかがめて、天上と地上で家族と呼ばれるすべてのものの名の元である父の前に祈ります(14節)。...
したがって、その間に挟まれている、2-13節は、括弧に入れるようにして、その「私パウロ」を説明したもの。パウロは、最初から、この14節以下に出てくる祈りを、「父の前に」捧げるつもりで1節のことばを書き始めたが、自分のことを「あなたがた異邦人のためのキリスト・イエスの囚人」として名乗ったあと、その意味を読者に説明する必要から、自分に与えられた啓示と、それを通して与えられた務めについて、2-13節で述べることになる。
あなたがたのためにと私がいただいた、神の恵みによる私の務めについて、あなたがたはすでに聞いたことでしょう。先に簡単に書いたとおり、この奥義は、啓示によって私に知らされたのです(2-3節)。...
啓示というものは、非常に個人的なもの。神様がその人だけに語る真理。だからと言って、それが他の人には関係のないことであるとは限らない。他の人に話す時は、それも示される。パウロが、この箇所に見るように、自分が啓示を受けたことをエペソの教会の人々に明らかにしているのは、むしろ珍しい。例えば、彼が第三の天に上げられた時に聞いたことばに関しては、その内容が明らかされていないが、それが普通。言うまでもなく、彼の手紙には、他の手紙と同様、それが啓示によるものであることを一々述べていなくても、その内容から、作者が何らかの形で神から特別に啓示を受けることによって書いたと思われるものが多い。
この奥義は、今は、御霊によって、キリストの聖なる使徒たちと預言者たちに啓示されていますが、前の時代には、今と同じようには人々に知らされていませんでした。その奥義とは、福音により、キリスト・イエスにあって、異邦人もまた共同の相続者となり、ともに一つのからだに連なり、ともに約束にあずかる者となるということです(5-6節)。
異邦人の救いは、聖書においては、「奥義」であった。ペテロも同じように、その奥義の啓示を受けて、コルネリオの家で福音を宣べ伝えた。頭に置いておくと良いのは、聖書のみことばに反したことが、啓示で示されることはあり得ない。ただ、聖書の真理が、それを表面的にしか理解しない人間の目に隠されている場合、神様が啓示によって助けて下さることがある。異邦人の救いに関する真理は、そのようなものであった。旧約聖書は至る所で、神様が異邦人を救われることを述べている。ただ、見る目がなければ、見過ごしてしまうものであったので、それが「奥義」であった。パウロが神からの啓示を受けて後、改めて旧約聖書を読み直すと、「なるほど」と思うことがいっぱい発見された。そこで、そのみことばの上に立ち(啓示だけによるのではなくて)、信仰によって宣教に出て行った。
...ですから、私があなたがたのために受けている苦難のゆえに落胆することのないようお願いします。私の受けている苦しみは、そのまま、あなたがたの光栄なのです(13節)。
長い前置きの後、パウロは次のように祈り始める。
こういうわけで、私はひざをかがめて、天上と地上で家族と呼ばれるすべてのものの名の元である父の前に祈ります。どうか父が、その栄光の豊かさに従い、御霊により、力をもって、あなたがたの内なる人を強くしてくださいますように(14−16節)。
「天上と地上で家族と呼ばれるすべてのもの」ということばに注目。そこには、異邦人はもちろん、霊的な存在である天使たちのすべてを含んでいる。その家族の「父の前に祈ります」といった、自身と確信に満ちた表現に驚く。あたかも、彼自身が体をもって天に上げられ、多くの天使たちの見る中、父なる神の前に実際に立つという体験をしたかのように聞こえるのは、私だけだろうか。

