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キリストを受け入れてクリスチャンになった人が、最初の頃は、聖書の知識がないにもかかわらず、救われて神の子どもとされたことを喜んでいたのが、何年か経つと、みことばの知識も増えたはずなのに、いつの間にか初めの喜びを失い、感謝の心もなく、つぶやきと不信仰の中を、かろうじて神様につながっているという感じで生きている人をよく見かける。それでも教会に来れば、多くの人と挨拶をし、自分がいないと教会がやっていかれないような振る舞いをし、他の兄弟姉妹と競争するようにして、自分を人々の前に出して奉仕しようとする。ところが、家に帰れば、家族のみんなに、自分が教会でいかにも多くの奉仕をしているかのように話をして(本当は、何もしていないのに)、やりたくない奉仕をさせられていると言ってつぶやく。すべてが見せかけと偽善と噓であり、その家族は、ふたを開ければ、夫婦は話しもせず、子どもが非常に危険な状態にあっても、親は子どものしていることを何も知らず、関心もない。
まさしく、これと同じ霊が、イエス様を十字架に架けて殺した、律法学者やパリサイ人たちの中に流れていた。彼らには、誰よりも聖書の知識があったが、その霊の耳と目は閉じたままで、神のみこころを一つも悟ることができなかった。どうしてなのか。何が足らないのか。
このような質問を頭に置いて、このサマリヤの井戸端の女の話しを読んでみよう。ヨハネの福音書は、実際に起きた出来事を比喩的な意味を持たせて語るのが特徴。この話しが分るためには、その裏にある、聖書の他の話しやみことばを知ると良い。例えば、聖書では、結婚は契約であり(創世記2:18以降)、神と人間との関係を夫婦に例えて話されていることや(例:エレミヤ3章)、昔から、井戸端という場所で、男女がよく自分の結婚相手に出会うこと(例:ヤコブとラケル、モーセとチッポラ)。また、水が夫婦の間の愛のシンボルであることや(箴言5:15以降)、神が「湧き水(生ける水のこと)の泉」であること(エレミヤ2:13)、さらに、旧約の律法に死んでキリストによる新しい契約に入ることが、結婚に例えて話されていること(ローマ7:1以降、エペソ5:25以降)などを知っていれば、大きな助けとなる。
そこにはヤコブの井戸があった。イエスは旅の疲れで、井戸のかたわらに腰をおろしておられた。時は第六時ごろであった。ひとりのサマリヤの女が水をくみに来た。イエスは「わたしに水を飲ませてください」と言われた。弟子たちは食物を買いに、町へ出かけていた。(ヨハネ4:6-8)。
「ヤコブの井戸」ということば自体が、もうすでに何かをほのめかしている。また、「弟子たちは食物を買いに、町へでかけていた」ことから、この時、そこにいたのは、この女とイエス様の二人だけ。そして、注目すべきは、イエス様の方から、先にこの女に「わたしに水を飲ませてください」と頼まれたこと。
そこで、そのサマリヤの女は言った。「あなたはユダヤ人なのに、どうしてサマリヤの女の私に、飲み水をお求めになるのですか。」‐‐ユダヤ人はサマリヤ人とつきあいをしなかったからである(9節)‐‐
サマリヤ人は、ユダヤ人にとっては、神の契約から外された民で、汚れた者。そんなサマリヤの女に、ユダヤ人のイエス様の方から話しかけられ、水を求められた。それで、女は戸惑った。
イエスは答えて言われた。「もしあなたが神の賜物を知り、また、あなたに水を飲ませてくれと言う者がだれであるかを知っていたなら、あなたのほうでその人に求めたことでしょう。そしてその人はあなたに生ける水を与えたことでしょう(10節)。」
「神の賜物」ということばに注目。これは、律法主義者にとって完全に無縁なことば。賜物といっても、まずは、女の方から、イエス様に「求める」必要があった。
彼女は言った。「先生。あなたはくむ物を持っておいでにならず、この井戸は深いのです。その生ける水をどこから手にお入れになるのですか。あなたは、私たちの父ヤコブよりも偉いのでしょうか。ヤコブは私たちにこの井戸を与え、彼自身も、彼の子たちも家畜も、この井戸から飲んだのです(11-12節)。」
生ける水は、「くむ物」が要らない。どうしてか。イエス様は、まさしく「ヤコブよりも偉い」方。どういう意味でだろうか。一字一句、よく味わいながら読むと良い。
イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでも、また渇きます。しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます(13-14節)。」

