ダヴァール神の国
ダヴァール神の国
Davar Kingdom of God
創造の神 No.10
1 hour 6 minutes Posted May 26, 2013 at 9:09 am.
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地には、まだ一本の野の灌木もなく、まだ一本の野の草も芽を出していなかった。それは、神である主が地上に雨を降らせず、土地を耕す人もいなかったからである。ただ、水が地から湧き出て、土地の全面を潤していた(創世記2:5-6)。
創世記2章の創造の話では、地の下から泉のように湧き出てくる水が、乾燥した地の全面を潤すところから始まる。これが、聖書における神の創造の業の描写の一つであることは、すでに学んだ。この2章の話しの中で、もう一つ注目すべきは、アダムに助け手が与えられたこと。まずは、アダムが自分にふさわしい助け手を探すところから始まる。
人はすべての家畜、空の鳥、野のあらゆる獣に名をつけた。しかし人には、ふさわしい助け手が見つからなかった(20節)。
この辺、ヨハネ4章の話しと関連して瞑想してみると良い。創造は単なる物質的なものではない。創造は、目に見えない霊の世界に由来する。人は、たとえ食べ物が十分あっても、愛がなければ、死と破壊が起きる。愛は創造を生み出す源。アダムは自分の助け手を求めたが、そこからエバの創造が始まった。
神である主は深い眠りをその人に下されたので、彼は眠った。そして、彼のあばら骨の一つを取り、そのところの肉をふさがれた。神である主は、人から取ったあばら骨をひとりの女に造り上げ、その女を人のところに連れて来られた(21-22節)。
深い眠りは、創造を生み出す。この時まだ罪と死が世界に入る前で、深い眠りによってエバが創造された。これはちょうど、罪と死の世界に来られたキリストの死と復活を通して、教会が生まれたことと同じである。
ヨハネ4章の話しをよく読み直してみると良い。サマリヤの女は、人類の代表として描写されている。自分の渇きを満たそうと、毎日、人工的に掘られた井戸に水を汲みに来ていた。夫を五回も変えたが満たされず、自分の真の夫を捜し求めていた。興味深いことに、最初に「わたしに水を飲ませてください」と言われたのは、イエス様の方。聖書では、水は愛のシンボル(箴言
この水を飲む者はだれでも、また渇きます。しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます(ヨハネ4:13−14)。
まさしく、イエス様に出会ったこの女は、この日新しく創造された。私達クリスチャンもみな同じ。ちょうどエバがアダムのあばれ骨から造られたのと同様に、私達もキリストの血と肉から新しく創造された。それは、私達が彼と一体となることによって、父なる神が誉め称えられるため。これをもっと霊的に説明するとすれば、次のようになる。
しかし、真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません(23-24節)。
礼拝は、神との愛の交わり。人が神を求めるだけではなく、神様の方こそが、ご自分を愛して礼拝してくる人間たちを求めておられる。キリストは、罪人をそのような「真の礼拝者」に造り変えるために地上に来られた。この女もそのような罪人の一人であった。
女はイエスに言った。「私は、キリストと呼ばれるメシヤの来られることを知っています...」イエスは言われた。「あなたと話しているこのわたしがそれです(25-26節)。」
女は、自分の水がめを置いて町へ行き、人々に言った(28節)。
愛はすべての律法の土台となるもの。隣人を愛する者は、すべての律法を守っている。
律法の全体は、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」という一語をもって全うされるのです(ガラテヤ
新約聖書によれば、キリストにあって、すべてのクリスチャンに神の愛がすでに注がれている。それは、上で見た心の中の泉のこと。その愛が、イエス様の与える水、自分の心の奥底から涌き出てくる水のことである。そこにこそ創造の業の源がある。