ダヴァール神の国
ダヴァール神の国
Davar Kingdom of God
創造の神 No.8 Sat@1
1 hour 6 minutes Posted May 25, 2013 at 9:09 am.
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こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。なぜなら、キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです(ローマ8:1−2)。
このローマ8章の最初の部分は、ちょうど人に空気が必要なように、クリスチャンにとって絶対に必要な真理について教えている。でも、その大切さに気が付いていないのが普通。何度も読んでよく瞑想すると良い。8章は7章の続きで、7章で問いかけた疑問に対して、8章がその答えを与えているかたち。その問題になっているテーマは、人はどのようにして、罪による死の支配から(=「罪と死の原理」)解放されて、本当に自由になって、心から喜んで律法の教える正しい行いを行って生きることができるのか、ということ。その答えが、上の1-2節のみことばである。
この箇所、「御霊」と訳された言葉が何度も出てくるが、ギリシャ語は、「プニューマ(pneuma)」という言葉。それが、神の霊のことか、人の霊のことか、あるいは、霊一般のことを指しているのか、それだけでは判断できない。神の霊といっても、父なる神、子なる神、聖霊なる神もみな、霊なる存在で、どの霊のことを指しているのか。また、天使のように良い霊たちもいれば、悪霊のように汚れた霊達もいる。作者が、それが神の霊であることをはっきりと示したいときは、「神の霊(pneuma theou)」というように、「神の」という名詞を付けたり、「聖霊(pneuma hagion)」というように、「聖なる」という形容詞を付けたりして表す。また、それが人の中に住む、神から遣わされた人の霊である場合は、「私たちの霊(pneuma hemon)」(ローマ8:16)とか、「私の霊(pneuma mou)」(1コリント14:14)というように、代名詞を付けて、それが神の霊ではないことを表す。しかし、これらの名詞、形容詞、代名詞などの修飾語が付いていなくて、「霊(pneuma)」とだけ書かれてある場合、どの霊のことを指しているのかは、その文脈で判断するしかない。
ローマ8:1−17のこの短い箇所だけで、「霊(pneuma)」ということばが全部で17回、それに対する「肉(sarx)」ということば全部で13回使われている。最初は、肉と霊が対照的に比較される形で議論が進められていることに注目。
肉(sarx)によって無力になったため、律法にはできなくなっていることを、神はしてくださいました。神はご自分の御子を、罪のために、罪深い肉(sarx)と同じような形でお遣わしになり、肉(sarx)において罪を処罰されたのです(3節)。
キリストは、「罪深い肉と同じような形」で来られた。人が罪を犯すのは肉においてすること。したがって、罪は犯されなかったが、私たちと同様、肉を持たれ、その肉で私たちの罪を負われた。
それは、肉(sarx)に従って歩まず、御霊(霊=pneuma)に従って歩む私たちの中に、律法の要求が全うされるためなのです(4節)。
肉と霊を比較して話していることに注目。肉ではなく、霊によって歩む時、神のみこころが自ずと守られるという。
肉(sarx)に従う者は肉的(sarx)なことをもっぱら考えますが、御霊(霊=pneuma)に従う者は御霊(霊=pneuma)に属することをひたすら考えます。肉(sarx)の思いは死であり、御霊(霊=pneuma)による思いは、いのちと平安です。というのは、肉(sarx)の思いは神に対して反抗するものだからです。それは神の律法に服従しません。いや、服従できないのです。肉(sarx)にある者は神を喜ばせることができません(5-8節)。
どうも、肉そのものには、何も良いものがないようだ。
けれども、もし神の御霊(pneuma theou)があなたがたのうちに住んでおられるなら、あなたがたは肉の中にではなく、御霊(霊=pneuma)中にいるのです。キリストの御霊(pneuma christou)を持たない人は、キリストのものではありません。もしキリストがあなたがたのうちにおられるなら、からだは罪のゆえに死んでいても、霊(pneuma)が、義のゆえに生きています(9-10節)。
ここで初めて「神の霊」ということばが出てくる。今まで使われていた「霊=pneuma」ということばは、これと同じ神の霊のことであったのか。こういったことを考えながら、次の箇所をよく瞑想すると良い。霊の世界は、非常に現実的なものである。
神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです。あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、「アバ、父」と呼びます。私たちが神の子どもであることは、御霊ご自身が、私たちの霊とともに、あかししてくださいます(14-16節)。