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わが子よ。私のことばをよく聞け。私の言うことに耳を傾けよ。
それをあなたの目から離さず、あなたの心のうちに保て。
見いだす者には、それはいのちとなり、その全身を健やかにする。
力の限り、見張って、あなたの心を見守れ。いのちの泉はこれからわく(箴言4:20-23)。
エデンの園に生えていたいのちの木が、まさか、自分の心の中にあるとは、だれも想像できない。「いのちの泉」とは、創世記2章の創造の話しの中で、エデンから流れる水と同じ。食べる実としてのいのちの木は、水で言えば、いのちの泉のこと。
一つの川が、この園を潤すため、エデンから出ており、そこから分かれて、四つの源となっていた(創世記2:10)。
当時まだ、雨が地上に降らず、水は地から涌き出て、土地の全面を潤していたことが記されているので(2:5−6)、この水も地から涌き出た水、つまり、泉によるものであったことが分る。この辺、水と水との間に区別ができ、大空の下と上の水に分かれる。ことによって天が造られたという1章の話し(1:6−8)とはかなり異なる。2章では、地上に涌き出る水によって、荒野が人の住む地に変えられていく。この水が、エデンの園にあったすべての「見るからに好ましく食べるのに良いすべての木を生えさせた(2:9)。」その中の2本が、いのちの木と、善悪の知識の木である。
この話しを、人の心の内側に注目しながら、ヨハネ4章の話しと比較してみると良い。
そこにはヤコブの井戸があった。イエスは旅の疲れで、井戸のかたわらに腰をおろしておられた。時は第六時ごろであった(ヨハネ4:6)。
話しは、まず、旅の疲れと喉の渇きで、井戸端で休んでおられたイエス様から始まる。その井戸は、ヤコブが掘ったとされる井戸であった。あとで、この井戸の水と、イエス様の与えられる水、すなわち、「永遠のいのちへの水」とが比較されて来るので、よく注意して読むこと。その渇いた状況は、創世記2章でのエデンの園が造られる前と同じ。ヤコブの井戸は、人間が人工的に掘ったもので、旧約における水の求め方を表している。さらに言えば、愛に飢え乾く人間が、自分が愛されることを肉的に求めていく生き方のこと。エレミヤによれば、「湧き水の泉であるわたしを捨てて、多くの水ためを、水をためることのできない、こわれた水ためを、自分のために掘った(エレミヤ2:13)」という偶像礼拝のこと。この方法では、その渇きを満たすことは不可能。
この女のかかえていた問題の解決は、イエス・キリストというお方にあった。
イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでも、また渇きます。しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます(ヨハネ4:13−14)。」
この女は、自分が水を求める相手を間違えていた。言い換えれば、自分が本当に結ばれるべき相手は、イエス様であった。この日、その方に出会ったのである。これをもっと霊的に説明するならば、次のようになる。
しかし、真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません(23-24節)。
人が神と結ばれて、一つになることを不思議に思ってはならない。結婚した二人が一つの体となるように、人が神を礼拝する時、人と神とが一つの霊となる。
遊女と交われば、一つからだになることを知らないのですか。「ふたりは一体となる」と言われているからです。しかし、主と交われば、一つ霊となるのです(1コリント6:16−17)。
あなたは、非常に霊的な存在である。この霊的な神との交わりなくして、あなたが完全に満たされることはない。その満たしは、あなたが、霊とまことによってあなたの霊の父である神を礼拝する時に、初めて実現する。これを可能とするために、キリストが来られた。もはや、古いヤコブの井戸から水を汲んで飲む必要はなく、イエス様があなたの中に住み、聖霊の助けにより、あなたのうちに泉が涌き出るようになった。創世記2章の創造の話しのように、そこから涌き出る泉によって、あなたは新しく創造されていく。荒野がエデンの園に変えられていく。
力の限り、見張って、あなたの心を見守れ。いのちの泉はこれからわく(箴言4:20-23)

