ダヴァール神の国
ダヴァール神の国
Davar Kingdom of God
創造の神 No.7 Sat@1
1 hour 6 minutes Posted May 18, 2013 at 9:09 am.
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それとも、兄弟たち。あなたがたは、律法が人に対して権限を持つのは、その人の生きている期間だけだ、ということを知らないのですか‐‐私は律法を知っている人々に言っているのです。‐‐夫のある女は、夫が生きている間は、律法によって夫に結ばれています。しかし、夫が死ねば、夫に関する律法から解放されます。ですから、夫が生きている間に他の男に行けば、姦淫の女と呼ばれるのですが、夫が死ねば、律法から解放されており、たとい他の男に行っても、姦淫の女ではありません。(ローマ7:1-3)。
パウロは、非常にロジカルな頭の持ち主なので、そのロジックにきちんと付いて来ることが大切。ここで今、ロジックの土台になっているのは、律法における結婚に関する定めである。すなわち、「夫のある女は、夫が生きている間は、律法によって夫に結ばれています。しかし、夫が死ねば、夫に関する律法から解放されます」という部分がそれに当たる。この定めを、ユダヤ人と律法の関係に適用して、そのロジックを進めている。ユダヤ人が妻、律法が夫にあたる。そして、妻が、その夫が死んだ場合、他の男に行くことが許されているように、律法、すなわち古い契約が終ったあとのユダヤ人は、他の夫、つまり、新しい契約に下に、キリストと結ばれても、罪にはならず、それはしても良いことである。言い換えれば、ユダヤ人が古い契約から新しい契約へ移行することを、聖書を通して正当化している。
当然、ここで対象になるのはユダヤ人だが、これを、異邦人には関係がないものとして読んではならない。パウロは、ユダヤ人として生まれ、厳しいパリサイ派の一員として育てられ、また教育されたので、旧約聖書の律法は、彼にとって非常に大きな部分を占めていた。したがって、それを理解して彼の手紙を読んであげることが必要。実は、ローマ書では、彼はこの後、ユダヤ人の枠を越えた人間一般の生き方に関する真理に触れてくる。よって、読者は、神ご自身から自分に与えられる、個人的なメッセージとして読み取ることが大切。そこに、恐るべき真理が隠されている。今回は、これを、いのちの木と善悪の知識の木の話しと結びつけて、人間の生き方のどこに間違いがあり、どのように生きることが本来の人間の姿であるのかを見ていく。
ここでは特に、霊と魂の関係を問題としているので、それを抽象的に考えていては、言っていることが少しも伝わってこない。霊の世界も、物質の世界と同様、確かな現実であるだけではなく、実は、そこにおける現実こそが先に来るものであって、この物質の世界の現実は、二次的なものである。
私の兄弟たちよ。それと同じように、あなたがたも、キリストのからだによって、律法に対しては死んでいるのです。それは、あなたがたが他の人、すなわち死者の中からよみがえった方と結ばれて、神のために実を結ぶようになるためです(4節)。
この辺から、彼の議論がややジャンプする。死んだのは、夫である律法ではなく、「私たち」とする:まずは、ユダヤ人、そして、異邦人も含まれることがほのめかされている。だから、ロジックと言っても、全く数学的なロジックではなく、例え話的なロジックなので、それも頭に置くこと。このようなロジックは、聖書では当たり前なので、こういったロジックに良く慣れておくことがコツ。
しかし、今は、私たちは自分を捕らえていた律法に対して死んだので、それから解放され、その結果、古い文字にはよらず、新しい御霊によって仕えているのです(6節)。
だんだんと、霊的、且つ、人間一般を含める内容に移って行く。律法とは、異邦人のクリスチャンにとっては、クリスチャンになった後に学ぶ聖書の知識、特に、何が正しいことであるかという知識がそれに当たる。ここで言う「古い文字」のこと。新しい契約のもとにありながら、新約も含めた神のことばを単なる律法として生きるクリスチャンが多い。そこには、死と破壊しかなく、後半の「新しい御霊によって仕える」という部分が欠けている。この真理を語るのに、パウロは、「私」を主語にして、自分の体験として話し出す。人の内側の深い所のことを問題にしているからである。
私はかつて律法なしに生きていましたが、戒めが来たときに、罪が生き、私は死にました。それで私には、いのちに導くはずのこの戒めが、かえって死に導くものであることが、わかりました(9-10節)。
この過去形も、そのうちに現在形に変わってくる。現在形ということは、彼がこの手紙を書いていた時も含まれることになる。
私には、自分のしていることがわかりません。私は自分がしたいと思うことをしているのではなく、自分が憎むことを行っているからです。もし自分のしたくないことをしているとすれば、律法は良いものであることを認めているわけです(15-16節)。
ぜひとも、啓示の御霊の助けによって、この真理を自分にすることができますように。