ダヴァール神の国
ダヴァール神の国
Davar Kingdom of God
創造の神 No.8
1 hour 6 minutes Posted May 12, 2013 at 9:09 am.
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しかし、今は、私たちは自分を捕らえていた律法に対して死んだので、それから解放され、その結果、古い文字にはよらず、新しい御霊によって仕えているのです(ローマ7:6)。
エデンの園に生えていた、いのちの木と善悪の知識の木が、今の私達にとってどういう意味があるのだろうか。大事なことは、創世記2−3章にある、エデンの園における話しが、アダムという一人の人の話しではなく、比喩的に人間一般を対象にした話しでもある点。そこで、一番知りたいのは、園の中央にあった二つの木の意味である。それは、人の生き方の裏にある無意識な考え方や態度のことで、実は、人はみな、心の中にいのちの木と善悪の知識の木を持っており、そのどちらかの実を食べて生きている。残念ながら、この世にいて、いのちの木から取って食べている人は非常に少なく、ほとんどの人が善悪の知識の木から取って食べ続けることによって、その身に滅びをもたらしている。クリスチャンになれば、自動的にいのちの木から取って食べるようになるかと思えば、実は、そうではない。
これをパウロ式に言えば、いのちの木から取って食べる生き方は、霊によって歩むことを指し、善悪の知識の木から取って食べる生き方は、肉によって歩むことを指す。霊によって歩む人は、自分の霊を通して語られる神の声に聞き従うことによって生きるが、肉によって歩む人は、自分の魂で(頭で)正しいと思われる考えにしたがって生きていく。問題は、いくら自分の頭で正しいと思うことをしようと努力しても、それができない自分を発見すること。それは、人の中にある罪と、この世を支配するサタンの圧迫のせいである。
私には、自分のしていることがわかりません。私は自分がしたいと思うことをしているのではなく、自分が憎むことを行っているからです。もし自分のしたくないことをしているとすれば、律法は良いものであることを認めているわけです。ですから、それを行っているのは、もはや私ではなく、私のうちに住みついている罪なのです(15-17節)。
この「自分がしたいと思うこと」というのが、ユダヤ人にとっては律法であるが、異邦人にとっては自分の中に住む良心の声である。また、クリスチャンにとっては、律法が一語をもって全うされるという、「互いに愛し合いなさい」という戒めのこと。ユダヤ人にとっての律法と同じように、私達はそれらがみな「良いものであること」を知っているので、それを肉によって守ろうとする瞬間、上で述べたサタンの罠にはまり、それを守れない、また守っていない自分を発見する。実は、律法に次のような箇所がある。
ケルビムは翼を上のほうに伸べ広げ、その翼で「贖いのふた」をおおうようにする。互いに向かい合って、ケルビムの顔が「贖いのふた」に向かうようにしなければならない。その「贖いのふた」を箱の上に載せる。箱の中には、わたしが与えるさとしを納めなければならない。わたしはそこであなたと会見し、その「贖いのふた」の上から、すなわちあかしの箱の上の二つのケルビムの間から、イスラエル人について、あなたに命じることをことごとくあなたに語ろう(出エジプト25:20-22)。
この構造が、「いのちの木への道を守るために」エデンの園の東側に置かれた、ケルビムと輪を描いて回る炎の剣に似ていることに注目すると良い。ただし、この「守る」という動詞を、肯定的な意味で理解する必要がある。創世記3:24の時点では、まだその「道」がどんなものであるのか、明らかにされていないが、上の出エジプト記のことばが、それに大きなヒントを与えている。つまり、「あかしの箱の上の二つのケルビムの間から、イスラエル人について、あなたに命じることをことごとくあなたに語ろう」という部分が、いのちの木にあたる。そして、善悪の知識の木は、契約の中に入れられた石の板のことで、それにはすでに「贖いのふた」がかぶされているので、あとに残されたアクセスは、ケルビムの間から聞こえる神の声である。これは、やがて新約に時代において、キリストを通して可能となる人間の生き方を預言している。
神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださるのです。すべてのことを、つぶやかず、疑わずに行いなさい(ピリピ2:13−14)。
キリストにある者の心の中、正確には、霊の部分に住まれる神様が、あなたの「うちに働いて」下さる。もはや、「語る」とか「言う」という表現ではなく、あなたの「うちに働いて志をたてさせ」るというところに注目。それは、声というより、みこころに沿った「志」であって、あなたは、そのみこころを自分のしたいこととして、自由になって、心から喜んですることができる。それが、実は、いのちの木である。