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知恵は、これを堅く握る者にはいのちの木である。
これをつかんでいる者は幸いである(箴言3:18)。
エデンの園の中央には、「いのちの木」と「善悪の知識の木」が生えていた。ご存知のとおり、人は、善悪の知識の木から取って食べた時、エデンの園から追放され、いのちの木へのアクセスを失った。善悪の知識の木とか、いのちの木とか、いったいどういう意味があるのか。善悪の知識の木から取って食べてしまった人が、もう一度、エデンの園に戻って、いのちの木から取って食べることはできないのか。
こういった質問に答えるためには、幾つかの細かい事実を把握する必要がある。まず、「アダム」という言葉は、それに定冠詞が付けられていることから、特定の人、つまり固有名詞としての意味というよりも、最初の人、そしてそれをシンボル的に、人一般のことを指して、そのように呼んでいる。言い換えれば、すべての人の心に、いのちの木と善悪の知識の木があって、そのどちらかを食べて生きているということ。第二に、エデンの園の構造やその役割が、幕屋や神殿の構造や役割と類似していることから、アダムは神に仕える祭司として、園に置かれていたことがほのめかされている。
神である主は人を取り、エデンの園に置き、そこを耕させ、またそこを守らせた(創世記2:15)。
実は、「耕す」がアバード、「守る」がシャマールという言葉だが、この二つの動詞は対になって、祭司が神殿での任務を果たす意味で使われる言葉(民数記3:7、8、8:26、18:7)。この時点では、アダムは自分の生活のために、地面を耕して作物を得る必要はなかった。
神である主は仰せられた。「見よ。人はわれわれのひとりのようになり、善悪を知るようになった。今、彼が、手を伸ばし、いのちの木からも取って食べ、永遠に生きないように。」そこで神である主は、人をエデンの園から追い出されたので、人は自分がそこから取り出された土を耕すようになった。こうして、神は人を追放して、いのちの木への道を守るために、エデンの園の東に、ケルビムと輪を描いて回る炎の剣を置かれた(3:22−24)。
当然のことながら、善悪を知ること自体が悪いのではない。神様も善悪を知っておられた。エデンの園の東側とは、ちょうど、神殿の至聖所のカーテンのある所で、そこには、十戒の書かれた板の入った契約の箱があり、そのふたの部分には、ケルビムが二つ置かれていた。これは偶然ではない。そして、これを紐解くために、非常に鍵になるのが次のことば。
わたしはそこであなたと会見し、その「贖いのふた」の上から、すなわちあかしの箱の上の二つのケルビムの間から、イスラエル人について、あなたに命じることをことごとくあなたに語ろう(出エジプト25:22)。
そもそも、契約の箱にはふたがしてあり、そのふたを「贖いのふた」と呼んだ。どうしてか。あたかも、十戒が悪いものであって、そこから人が救われる必要があったかのような印象を受ける。間違えてはならないのは、十戒は、神から出たもので、正しく、良いもの。しかし、それに対するアプローチが、ふたによって、しかも、二つのケルビムによって閉ざされている。あたかも、十戒が人に必要のないものであるかのように見える。そして、ケルビムの間から、神様ご自身が「命じることをことごとくあなたに語ろう」と言われる。ここに、恐るべき真理が隠されているが、これを自分のものにした人は幸いである。
神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださるのです。すべてのことを、つぶやかず、疑わずに行いなさい。それは、あなたがたが、非難されるところのない純真な者となり、また、曲がった邪悪な世代の中にあって傷のない神の子どもとなり、いのちのことばをしっかり握って、彼らの間で世の光として輝くためです(ピリピ2:13−16)。

