ダヴァール神の国
ダヴァール神の国
Davar Kingdom of God
創造の神 No.5 Sat@1
1 hour 6 minutes Posted May 4, 2013 at 9:09 am.
0:00
1:06:32
Download MP3
Show notes
さて、神である主が造られたあらゆる野の獣のうちで、蛇が一番狡猾であった。蛇は女に言った。「あなたがたは、園のどんな木からも食べてはならない、と神は、ほんとうに言われたのですか。」女は蛇に言った。「私たちは、園にある木の実を食べてよいのです。しかし、園の中央にある木の実について、神は、『あなたがたは、それを食べてはならない。それに触れてもいけない。あなたがたが死ぬといけないからだ』と仰せになりました(創世記3:1−3。)
創世記の創造の話しは、クリスチャンたちの間で、よく誤解されて解釈されている。その一番の原因は、使われている言葉や表現を文字通りの意味に理解しようとする点にある。作者も、またその編集者たちも、これらの話しをそのような意味で書いたのではない(特に3章までの時点では)。こういった言い方をすると、伝統的なクリスチャンたちの間では、聖書が神のことばであることに疑いを投げかけているように思う人がいるはず。おもしろいことに、そういう人でも上の言葉での「蛇」を普通サタンの意味に理解している。それとも、昔の蛇は、足もあったし、人間のように言葉を語っていたのだろうか。しかも、ヘブル語で。
何度も述べているように、「人」と訳されている言葉はヘブル語で「アダム」、作者もその意味で使っている。つまり、「アダム」という名の特定の人ではなくて、「人」一般、過去に生きた人たちも、現在生きている人たちも含めての「人」のこと。したがって、人が罪を犯す時は、みな「アダム」が善悪の知識の木から取って食べたと同じように、その木から取って食べることによって罪を犯す。あなたの罪は、アダムの責任ではなくて、あなた自身の責任であるということだ。
実は、これらの話しを霊的な比喩を含めた意味で理解していくと、そこに恐るべき多くの真理を発見する。そもそも、真理とは霊の世界における現実のことで、この物質の世界を越えた所で本当に起きたことである。それを、この世界での現実の意味に制限して理解しようとするとどうしても無理が生じる。人が裸であったのに、互いに恥ずかしいと思わなかったことや、罪を犯した後、いちじくの葉をつづり合せて、自分の体を覆おうとしたことも、みな、比喩的な意味を含めた描写である。そのためには、当時(創世記が書かれた、編集された)の彼らの文化において、裸というものがどのように考えられていたのか、また、聖書の中で、裸、また衣を着ることに関する表現が、どのような意味で使われているかに注目すると良い。例えば、洪水のあとのノアの話しとか、ボアズが自分の足下で寝ていたルツにしたこととか、新約では、イエス様が裸で死なれたこと、またその衣が分け前として分けられたこと、さらに、古い人を脱ぎ捨てて新しい人を着るとか、さらにキリストを着るという表現に至るまで、よく瞑想すると良い。そこに大きな真理を発見する。
同様に、「いのちの木」、また「善悪の知識の木」の持つ意味、さらに、「エデンの園」そのものの持つ意味、さらに、罪を犯した後の人間が、その園から追放されたことの意味など、すべて、聖書は霊の世界で起きた現実を私たちに教えようとしている。
そこで、蛇は女に言った。「あなたがたは決して死にません。あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです(4-5節)。」
そもそも、人は、1章によれば、すでに「神のかたちとして」、「神に似せて」造られたのであって、「神のよう」であったのではないか。この蛇は、いったい何を企んでいるのか。
そこで女が見ると、その木は、まことに食べるのに良く、目に慕わしく、賢くするというその木はいかにも好ましかった。それで女はその実を取って食べ、いっしょにいた夫にも与えたので、夫も食べた。このようにして、ふたりの目は開かれ、それで彼らは自分たちが裸であることを知った。そこで、彼らは、いちじくの葉をつづり合わせて、自分たちの腰のおおいを作った。そよ風の吹くころ、彼らは園を歩き回られる神である主の声を聞いた。それで人とその妻は、神である主の御顔を避けて園の木の間に身を隠した(6-8節)。