ダヴァール神の国
ダヴァール神の国
Davar Kingdom of God
創造の神 No.3 Sat@1
1 hour 6 minutes Posted Apr 20, 2013 at 9:09 am.
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初めに、神が天と地を創造した。
地は茫漠として何もなかった。やみが大水の上にあり、神の霊が水の上を動いていた。
神は仰せられた。「光があれ。」すると光があった。
神は光を見て良しとされた。神は光とやみとを区別された。
神は光を昼と名づけ、やみを夜と名づけられた。夕があり、朝があった。第一日(創世記1:1−5)。
これは、「始まりの書」、いわゆる創世記の冒頭のことばだが、伝統的に、ほとんどの聖書が上のように訳している。実は、この訳では、本来の意味から少し離れている。この訳でも元の意味から、それ程ずれているわけではないのでだいじょうぶだが、これでは、最初の「初めに、神が天と地を創造した」という一行が、現代の新聞やニュースの見出しのように述べられている感じになる。ところが、ヘブル語の文学には、そのような形を取る書物はなく、前置きもなく、いきなり、話しの内容に入っていくのがその特徴。詳しく言うと、上に見るような表現は、アッカドの文学の影響を受けたもので、時を表す「初めに(ベレシート、bere’shit)」ということばに続き、「創造する(バラー、bara’)」という動詞の過去形(perfect)がそれを修飾する形で使われて、次に、その動詞の主語の「神」、最後に、目的語の「天と地」という語順になっている。このような表現は、「...した時」という、時を表す副詞節として、同じセム語のアッカドには頻繁に使われている。面白いことに、創世記と同じ時期に書かれた、エレミヤ書にも、レガア(「瞬間」の意味)という時を表すことばが、その同じ使い方がされてある。したがって、上の創世記のみことばは、1-2節全体が、従属説として、時を表す副詞節に付随している形になって、主説の動詞は、神が「言った(仰せられた)」という動詞で、初めて話しが始まる形になっている。これらを頭に置いて訳し直すと、以下のようになる。
神が天と地を創造された初めのとき、地はかたちもなく、混沌とし、暗闇が深みの上にあり、神の風がその水の上を動き回っていたが、そのとき、神は仰せられた。「光あれ」。すると光があった。神はその光がすばらしいのをご覧になり、光と暗闇とを区別された。神がその光を昼、その暗闇を夜と呼ばれると、夕となり、やがて朝となった。第一日目。
大事なことは、創造と言っても、そこに最初から、「暗闇(ホシェフ、Choshek)」と「深み」と「水(マイム、maim)」があったこと。したがって、創造は「光」が存在した時から始まったことになる。「深み(テホーム、tehom)」ということばが、スメルやバビロニアの創造の話しに出てくる、ティアーマート(tiamat)と呼ばれる海水の女神(混沌と破壊の女神)と結びついていることは有名。エヌーマ・エリシュの話しの中では、この女神は、マルドゥク(Marduk)によって殺されるが、その体が二つに分けられて、天と地が造られることになるあたり、聖書の話しと非常に近いことに気づく。
創世記一章の話しは、よく進化論と対抗されて、教会において議論される。進化論は科学の生み出した一つの理論。聖書と科学は、まったく異なったことを前提にしているので、それをよく理解すると、互いに議論することは、全く無駄であることが分ってくる。パスケットのゲームを、パレーボールのルールをもってすることは不可能。野球のホームラン王と、サッカーの得点王と、ゲームをして、どちらが勝つのかを競うことはできない。クリスチャンが進化論に対抗して戦おうするならば、自分たちの信じている聖書を科学と同じレベルに引き下げることになる。そもそも、この創世記の話しも、他の聖書の箇所も、みな、科学的な知識を与えるために書かれたものではない。それを、「聖書はそんなことは言ってないので、進化論は間違っている」とは、聖書のすばらしさをまだ知らないから、言えることばである。聖書は、私達が住む地が丸い球の形をしていていることも、それが宙に浮かんで太陽の回りを回っていることも書いていなければ、電気や電波の存在についても、何も教えていない。それを、「聖書はそんなことを言っていない」と言って否定することが馬鹿げていることは、すべてのクリスチャンが知っているのに、進化論となると、頭ごなしに悪いものだと言う。パリサイ人たちが、霊的な汚れと物質的な汚れを混乱して考え、イエス様の弟子達が手を洗わずに食事をしていたことを非難した態度によく似ている。逆に、一流の科学者たちは、科学にはどうしても越えることのできない限界のあることをよく知っている。その限界は、その追求の前提となるルールにある。そのルールが悪いのではなく、人の住む物質の世界が、神の創造された世界の一つにしか過ぎない所にその限界がある。神は、そのルールの成り立たない別の新しい世界をお造りになることがいくらでもできるし、事実、天使らが住む霊の世界がそのような世界である。その真理を、聖書は、創世記の一番最初から教えている。科学の限界を超越した所から、聖書の分野が始まる。だからこそ、聖書が聖書であることができる。クリスチャンは、もっと神のことばに対して、信仰を高く持つべきだし、自分がそのことばを学び、理解できる者であることを神にあって誇りとし、また大きな喜びとすべきである。サタンの惑わしに注意すること。
神は仰せられた。「さあ人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて。彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配するように(26節)。」