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「光が、やみの中から輝き出よ」と言われた神は、私たちの心を照らし、キリストの御顔にある神の栄光を知る知識を輝かせてくださったのです(2コリント4:6)。
それは彼らの目を開いて、暗やみから光に、サタンの支配から神に立ち返らせ、わたしを信じる信仰によって、彼らに罪の赦しを得させ、聖なるものとされた人々の中にあって御国を受け継がせるためである(使徒26:18)。
神は、私たちを暗やみの圧制から救い出して、愛する御子のご支配の中に移してくださいました(コロサイ1:13)。
私達がキリストを通して受ける救いとは、闇の状態にあった心の中に光が輝くこと、あるいは、暗闇の中にあった者が光の中に入れられることを指す。それは、創世記一章の話しからすれば、創造のことだ。破壊されたものが、新しく造り直された。死んでいた者にいのちが与えられた。
初めに、神が天と地を創造した。
地は茫漠として何もなかった。
やみが大水の上にあり、神の霊が水の上を動いていた。
神は仰せられた。「光があれ。」すると光があった。
神は光を見て良しとされた。神は光とやみとを区別された。
神は光を昼と名づけ、やみを夜と名づけられた。
夕があり、朝があった。第一日(創世記1:1−5)。
新約聖書では、この創造をヨハネが次のように表現している。
初めに、ことばがあった。
ことばは神とともにあった。ことばは神であった。
この方は、初めに神とともにおられた。
すべてのものは、この方によって造られた。
造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。
この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。
光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった(ヨハネ1:1−5)。
創造とは、この宇宙の創造のことだけを言っているのではなくて、キリストを信じる者すべてに、今も起きていることだと知ることは、非常に大切。しかも、救われた私達は、神様とともに創造の業を行なう者である。
旧約聖書において、イスラエルの民も、実は、同じようにして、神によって創造された。ちょうど、私たち異邦人が、キリストにあって、神の子どもとされ、キリストのからだの一部とされたのと同じ。以下のような描写を、創世記一章とよく比較してみると良い。
ついでイスラエルの陣営の前を進んでいた神の使いは、移って、彼らのあとを進んだ。それで、雲の柱は彼らの前から移って、彼らのうしろに立ち、エジプトの陣営とイスラエルの陣営との間に入った。すると、雲と闇(区別)があった。雲は夜を照らし、一晩中、一方が他方に近づくことはなかった。そのとき、モーセが手を海の上に差し伸ばすと、主は一晩中強い東風で海を退かせ、海を陸地とされた。それで水は分かれた。そこで、イスラエル人は海の真ん中のかわいた地を、進んで行った。水は彼らのために右と左で壁となった(イタリックの部分は私訳、出エジプト14:19−22)。
ここに出てくる雲は、光る雲であって、昼間は太陽の光のせいで、光っていることが分らないが、夜の間は光っていた。この出来事は夜に起きた。その光の雲が、イスラエル人の後ろに回り、攻めて来るエジプトの軍隊との間を分けるかたちになった。「(光る)雲と闇(との区別)があった」(新改訳では、この部分を「それは真っ暗な雲であったので」と訳しているが、これは間違い。それでは反対の意味になってしまう。ここでの雲は光る雲で、むしろ、光と闇とが区別されて、光る雲が夜を照らしていたことが言いたい)。この点が、まさに、創世記の創造と同じ。さらに、「東風」と「神の霊」、さらに、それによって水が分けられた点も、創世記と全く同じ。これは、イスラエル人がこのようにして、神によって創造された民であることを示している。さらに、私達クリスチャンが受けるバプテスマのことを表していることにもなる。この辺のことは、聖書の創造の考え方の中心になってくるので、よく瞑想し、自分のものとすると良い。

