ダヴァール神の国
ダヴァール神の国
Davar Kingdom of God
創造の神 No.2 Sat@1
1 hour 6 minutes Posted Apr 6, 2013 at 9:09 am.
0:00
1:06:32
Download MP3
Show notes
ガラテヤ書は、パウロの書いた手紙として聖書になって残っている中で、最初の頃に書かれたものの一つ。他の手紙に比べて、書かれた時と場所がはっきりしないのが特徴。ただ分ることは、使徒15章でのエルサレム会議のあと(というのは、ガラテヤ2章との繫がりから)、第三次伝道旅行の終わりまでの間に書かれたことは確か(というのは、彼がその時囚人であったことが記されていないから)。使徒の働きによれば、パウロがガラテヤ地方を初めて訪れたのが、第一次伝道旅行の最後の頃(使徒13:14以降)で、その後、エルサレム会議があり、第二次伝道旅行の始まりの時に、再び訪れ、最後に訪れたのが第三次伝道旅行の最初の時であった(18:23)。この辺、頭に入れて置くといろいろと便利。
ご承知のとおり、私が最初あなたがたに福音を伝えたのは、私の肉体が弱かったためでした。そして私の肉体には、あなたがたにとって試練となるものがあったのに、あなたがたは軽蔑したり、きらったりしないで、かえって神の御使いのように、またキリスト・イエスご自身であるかのように、私を迎えてくれました。それなのに、あなたがたのあの喜びは、今どこにあるのですか(ガラテヤ4:13−15)。
この箇所で、パウロが、福音を初めてガラテヤの人々に福音を伝えた時のことを、「最初」と表現していることから、この手紙を書いた時には、既に、二回以上の訪問をしていたと推理される。そうなると、第2次伝道旅行の初めの頃以降に書かれたことになる。これらの事から、パウロの手紙の中でも、第1と第2テサロニケ、またローマ人への手紙などと、書かれた時期が近いので、同じグループに入れて考えると頭に入れ易い。まだ若し頃の彼の手紙であった。
ガラテヤの教会は、その時、霊的に非常に危ない危機にあった。その事実を知ったパウロが、怒りに近い口調でこの手紙を書いた。もちろん、その怒りは、彼らを愛する愛から来る怒りである。手紙の冒頭から、すぐにその話題に触れるようにして書いている点など、穏やかではなく、他の手紙に比べると書き方が異様である。
使徒となったパウロ−−私が使徒となったのは、人間から出たことでなく、また人間の手を通したことでもなく、イエス・キリストと、キリストを死者の中からよみがえらせた父なる神によったのです−−および私とともにいるすべての兄弟たちから、ガラテヤの諸教会へ(1:1-2)。
律法を守り、行いによって義とされようとする生き方に対して、福音を信じて、信仰によって義とされ、キリストにあって新しく造られた者として生きる生き方との違いを、いろいろな比喩を使いながら、ロジカルに説明をして行く。典型的なパウロの説教スタイル。よく、一つ一つのロジックを追いながら、ゆっくりと読むと良い。感ずるのはなく、分ることが絶対に必要。
キリストは、自由を得させるために、私たちを解放してくださいました。ですから、あなたがたは、しっかり立って、またと奴隷のくびきを負わせられないようにしなさい(5:1)。
福音は「自由」を与えるが、律法は「奴隷のくびき」を負わせるもの。非常に大切な真理。ただし、霊によって歩まなければ、いくらクリスチャンであっても、その自由はなく、滅びを刈り取りながら生きて行く。この自由こそが、創造の鍵である。人にとってあまりにも良過ぎる真理なので、かえって受け入れにくいのか。人はみな、自ら、奴隷のくびきを負い、滅びの人生を歩もうとする。自分はクリスチャンだから、だいじょうぶだと思ってはならない。この手紙は、ガラテヤ地方に住むクリスチャンたちに書かれたものであることをお忘れなく。
私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。なぜなら、肉の願うことは御霊に逆らい、御霊は肉に逆らうからです。この二つは互いに対立していて、そのためあなたがたは、自分のしたいと思うことをすることができないのです(5:16−17)。
思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります。自分の肉のために蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、御霊のために蒔く者は、御霊から永遠のいのちを刈り取るのです(6:7−8)。
割礼を受けているか受けていないかは、大事なことではありません。大事なのは新しい創造です(6:15)。