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割礼を受けているか受けていないかは、大事なことではありません。大事なのは新しい創造です(ガラテヤ6:15)。
ここが、私たちキリストにある者の信仰が、宗教と分かれる点。あるのは、キリスト教ではなく、神のことばを信じる信仰であり、その結果起きる「新しい創造」である。当時のガラテヤの教会の人々は、パウロを通して初めて福音を聞き、信仰によって救われたが、その後エルサレムから来た、いわゆる割礼派の人々の影響を受けて、ユダヤ教の戒律に従い、割礼を受けなければ救われることはないと考えるようになってしまった。パウロがそのニュースを聞いて書いたのがこのガラテヤ人への手紙。
「割礼」とは、私たちの場合には、教会の会員になるとか、洗礼を受けるとか、教会に何年通うとか、献金をいくらするとか、教会のいろんな奉仕をするとかといった、外面的なものを全部含めている。それらが悪いものだと言っているのではなく、それらを神の恵みと同じレベルに考えて、それらによって、自分の救いを初め、さまざまな問題からの解放や、必要の満たしなど、神から祝福を受けるのだと考えると、大きな間違いを犯す。聖書はそんなことは何も言っていない。よく、救われてから何年も経つ人から、「自分はこんなに奉仕をしているのになぜ、問題が解決せず、祝福されないのですか」といった質問を受けることがある。多くの場合、そういった質問をする人は、実は、そんなに献身的に奉仕をしている訳ではなく、自分よりも遥かに献身的に奉仕をしている人が他にたくさんいることを知らずにいる。奉仕をすれば、奉仕のために費やした時間や労力に対して、給料を受けるように神様から祝福を受けるとは、聖書はどこにも約束していない。目で見える奉仕も外面的なものであり、私たちが神から受ける祝福はみな恵みによるもので、それは新しい創造である。
実は、聖書に出てくるイスラエル人も、外面的な割礼によって存在するようになったのではなく、神によって新しく創造された民であった。聖書に次のようなことばが頻繁に出てくる。
イスラエルの聖なる方。これを形造った方、主はこう仰せられる (イザヤ45:11)。
わたしは主、あなたがたの聖なる者、
イスラエルの創造者、あなたがたの王である(43:15)。
イスラエル人は神に創造された民、神に形造られた民であった。ところが、彼らが偶像を拝むようになってしまったことにより、神からのさばきを受け、国は滅ばされ、エルサレムも破壊され、生き延びた者はみなバビロンに捕囚に連れられて行ってしまった。それを、神様がもう一度新しく創造し直すという。こういった箇所の裏に隠された意味を知るためには、その時代背景を知ることが不可欠。興味のある人は、エレミヤ書やエゼキエル書を読むと良い。エルサレムが破壊されたというニュースを聞いたエゼキエルは、ある時、次のような体験をした。
主の御手が私の上にあり、主の霊によって、私は連れ出され、谷間の真ん中に置かれた。そこには骨が満ちていた。主は私にその上をあちらこちらと行き巡らせた。なんと、その谷間には非常に多くの骨があり、ひどく干からびていた。主は私に仰せられた。「人の子よ。これらの骨は生き返ることができようか。」私は答えた。「神、主よ。あなたがご存じです(エゼキエル37:1-3)。」
この「谷間」とは、どこであったのか。また、イザヤ書によれば、神様は次のようにも言われた。
先の事どもを思い出すな。
昔の事どもを考えるな。
見よ。わたしは新しい事をする。
今、もうそれが起ころうとしている。
あなたがたは、それを知らないのか。
確かに、わたしは荒野に道を、荒地に川を設ける(18−19節)。
預言されたとおりに、民はエルサレムに戻り、神殿は再建され、町も建て上げられ、契約も結び直された。イスラエルの再創造だ。これは、罪によって破壊の世界に生きるようになってしまった私たちに対してもそのまま当てはまる。実は、私たちの場合は、もっと霊的、また宇宙的なレベルにおける神の創造であるが。
だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました(2コリント5:17)。

