ダヴァール神の国
ダヴァール神の国
Davar Kingdom of God
創造の神 No.1
1 hour 6 minutes Posted Mar 17, 2013 at 9:09 am.
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だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。(2コリント5:17)。
これは、クリスチャンならば誰でも知っているみことばだが、どこまで本当にこの真理を信仰によって受け入れているかは、また別。「見よ、すべてが新しくなりました」と言っても、顔も髪の毛も、住んでいる場所も、語る言語も、過去の記憶も何も新しくはなっていない。どこが新しくなったと言うのだろうか。「古いものは過ぎ去って」と言っても、実際にはその逆で、自分も含めて、すべてが古くなっていくだけではないか。
もし聖書が言っていることが正しいとするならば、私たちの解釈の仕方が間違っていることになる。実は、聖書はみな霊的な現実を語るもので、それを目で見える物質の現実のことに理解すると分らなくなってくる。上のみことばの直前に、次のようなことばがある。
ですから、私たちは今後、人間的な標準で人を知ろうとはしません。かつては人間的な標準でキリストを知っていたとしても、今はもうそのような知り方はしません(16節)。
ここで「人間的な標準」と呼んでいるのが、物質の世界の見方のこと。その見方でイエス・キリストを見るならば、彼は単なる大工の息子で、ヨセフとマリアの子にしか過ぎない。しかし、霊の世界の現実で見るならば、天地創造の前から存在しておられた、ひとり子の神、「ことば」なるお方である。この二つの現実を混乱して考えると、聖書が分らなくなる。そして大事なことは、人であるあなたにも、物質の世界の現実と、霊の世界の現実があるということ。キリストを受け入れた人が、今は「新しく造られた者」であるというのは、霊の世界の現実のことで、それを信仰で受け入れる時、その事実が効力を持ってあなたに働き始める。そこがこの世界の現実との違い。イエス・キリストがすべての人の罪のために死なれたとは霊的な現実であり、それを信仰によって受け入れる人のみ、その罪が赦されて義とされる。
私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです(ローマ6:4)。
あなたが「キリストとともに葬られた」と言っても、あなたにはその記憶がないはず。なぜならこれは、キリストを受け入れたあなたに起きた霊の世界の現実であるからだ。この真理があなたの人生に効力を持って働くためには、あなたが自分の信仰によってそれを受け取ることが必要。このバプテスマは、あなたが受ける水のバプテスマのことを言っているのではなく、霊の世界で起きた「キリスト・イエスにつくバプテスマ」のこと。
いよいよ、「創造の神」シリーズの始まりだ。聖書の教える「創造」に関しては、多くのクリスチャンたちが無知であるか、何かの勘違いをしている。頭を柔らかくして、みことばをよく瞑想すると良い。知っていると思うと、まだ知るべきことも知らないでいる。だから、謙遜になろう。もし、創造の神のわざの真理を本当に理解できれば、人生の歩み方が大きく変わってくる。日曜の説教は、新しいポイントを紹介するイントロ的な要素が強いので、みことばを本当に深く学びたいと願う人は、それに沿った説教ドリルをすることを勧める。自分の目で聖書を調べ、神様から直接真理を学ぶことが必要。説教ドリルは、セルフ・スタディーの形になっているので、自分一人で聖書とじっくり取り組むことができる。また、そこで学んだことを他の人とシェアーすると、さらに、新しい発見へとつながることが多いので、グループスタディーとして使うのも良い。そして最後に勧めることは、そのドリルの箇所の説教を聞くこと(今は、土曜一時の説教のこと)。ドリルをやっただけの状態では、一般的に言うと、そのポイントの半分も分っていないというのが現状。
「創造の神」に関しては、創世記1−2章の話しを初め、聖書には本当にたくさんの凄い話しが載っている。そのすべてが実際に起きた話しであり、霊の世界においてどんなことが起きたかを啓示している。それを学ぶ人は、信仰が強められ、霊的に成長し、神のことばが実際の生活の中で大きな力として働くようになる。まずは、エゼキエルの次の話しを読んで見よう。
主の御手が私の上にあり、主の霊によって、私は連れ出され、谷間の真ん中に置かれた。そこには骨が満ちていた。主は私にその上をあちらこちらと行き巡らせた。なんと、その谷間には非常に多くの骨があり、ひどく干からびていた。主は私に仰せられた。「人の子よ。これらの骨は生き返ることができようか。」私は答えた。「神、主よ。あなたがご存じです(エゼキエル37:1−3。」