ダヴァール神の国
ダヴァール神の国
Davar Kingdom of God
喜びと感謝の力 No.18
1 hour 6 minutes Posted Mar 10, 2013 at 9:09 am.
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彼は貧しい人々に惜しみなく分け与えた。
彼の義は永遠に堅く立つ。その角は栄光のうちに高く上げられる(詩篇112:9)。
与える心は、人間ならば誰もが持っている神の心。それは、神のかたちに造られた人間の品性の一つと言える。どんなに悪に染まった人や、世的と思われる人でも、その心の奥底をよく覗いてみれば、自分を捨て他の人に与える心を持っている。それが神から出たものであるからだ。
ただ、今の人間たち、その心におおいが掛けられて、それが効力を持って働くことができないようになっている。この世の支配者、サタンのせいだ。クリスチャンであっても、気をつけないと、そのおおいがまだ取り除かれていないまま、与える心が百パーセント行動に現われていない場合が多い。それは、この世に生まれた後、アダムとエバと同じように、恵み豊かな神を忘れ、ケチな心を、親や周りの人々から習ってしまったからだ。したがって、何かの新しい真理を学ぶというよりも、自分の中にある神のかたち、即ち、神の品性に注目して、それに素直に行動することがコツ。
上のみことばを、パウロが第2コリントの手紙の中で引用している。これは、彼がコリントの教会の信者たちの心を刺激して、物質的必要に苦しむエルサレムの教会を助けるための献金を捧げるように励ましている箇所である。献金を集めるだけのためならば、「与えなさい」と律法的に強制することもできるが、それでは、神の国においては何の意味もなく、神の働きとは関係のない所でお金が動くだけである。こういったこと、霊的な死を体験した後の人間には、無知な部分になってしまった。そこで、パウロが彼らに、与える心の基本を教えようとしている。
ひとりひとり、いやいやながらでなく、強いられてでもなく、心で決めたとおりにしなさい。神は喜んで与える人を愛してくださいます(2コリント9:7)。
神にあって与える場合に一番大切なことは、「喜んで与える」こと。「喜んで与える」とは、強いられて与えるのではなく、自分から進んで捧げたいという願いを持って捧げること。「いやいやながらでなく、強いられてでもなく」とは、「ささげなくてはならない」というような律法的な、束縛されたような態度で捧げるのではないという意味。「心で決めたとおりにしなさい」とは、自由になってという意味。自由とは、自分の中の意志のままに「ささげたい」という願いをもって捧げることを言う。したがって、他人との比較の中でいい格好をしようとしたり、他の人に誉められようとしたりする場合には、自分の自由の心に反して、本当は捧げたくないのに捧げるという偽善的な態度になる。それは噓の中で捧げることで、信仰から出ていない。使徒5章に出てくるアナニヤとサッピラは、そのために死んでしまった。信仰から出ていないことは、すべて罪であり、その行いが神に喜ばれることはない。
したがって、当然のことながら、与える額が問題なのではない。問題は、与える心であり、その信仰である。二レプタを捧げたやもめの話しを思い出すと良い。
それから、イエスは献金箱に向かってすわり、人々が献金箱へ金を投げ入れる様子を見ておられた。多くの金持ちが大金を投げ入れていた。そこへひとりの貧しいやもめが来て、レプタ銅貨を二つ投げ入れた。それは一コドラントに当たる。すると、イエスは弟子たちを呼び寄せて、こう言われた。「まことに、あなたがたに告げます。この貧しいやもめは、献金箱に投げ入れていたどの人よりもたくさん投げ入れました。みなは、あり余る中から投げ入れたのに、この女は、乏しい中から、あるだけを全部、生活費の全部を投げ入れたからです(マルコ12:41−44)。」
やもめが自分の財産全部を捧げたこともさることながら、このイエス様の行動に注目すると良い。彼は、神殿に向かって置かれていた献金箱の後ろの方(神殿とは反対側)で、人々が捧げる様子をご覧になっていた。当然、捧げる人達は、この女も含めて、自分がイエス様に見られていることを知らないでいた。これと全く同じように、イエス様は、あなたの捧げる様子、つまり、捧げる心をいつもご覧になっている。そして、その心にしたがって、あなた自身はもちろん、あなたの家族、またあなたの教会を祝福される。この女の捧げものが、この女だけではなく、同じように神殿で神を礼拝する人々をも祝福された。ちょうど、ひとりのイエス様がご自分を捧げられたことにより、彼を信じるすべての者がその恩恵に預かるようになったのと同じ。これがいつも、神様の方法。
悲しんでいるようでも、いつも喜んでおり、貧しいようでも、多くの人を富ませ、何も持たないようでも、すべてのものを持っています(2コリント6:10)。