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ハレルヤ。幸いなことよ。主を恐れ、その仰せを大いに喜ぶ人は(詩篇112:1)。
この詩は、神のことばを喜ぶ人がどんな人で、どんな約束が彼のものであるのかを歌っている。神のことばを喜ぶことは、神のみわざを喜ぶことより、レベルが上。神のみわざを喜ぶのは、自分の問題が解決したり、必要が満たされたりした場合に喜ぶことで、神を信じる者なら誰もが体験することだが、神のことばを喜ぶとは、いったいどういうことだろうか。
その人の子孫は地上で力ある者となり、直ぐな人たちの世代は祝福されよう。
繁栄と富とはその家にあり、彼の義は永遠に堅く立つ(2-3節)。
すぐに気がつくことは、主の仰せを喜ぶ人には、その人が祝福されるだけではなく、その家族、隣人、会社や学校の友達、またその子どもや孫たちなど、次の世代の人々にまで、その祝福が流れていく。そして、それが、どうも「彼の義」と関係があるようだ。「義」というと、この一つ前の111篇もそのことに触れている。
ハレルヤ。私は心を尽くして主に感謝しよう。直ぐな人のつどいと集会において。
主のみわざは偉大で、みわざを喜ぶすべての人々に尋ね求められる。
そのみわざは尊厳と威光。その義は永遠に堅く立つ(111:1−3)。
111篇での義は、神の義のことで、それが「永遠に堅く立つ」と言っている。ところが、112篇では、主の仰せを喜ぶ人の義が同じように「堅く立つ」と言っている。なんと、この人は、神と同じ義を持っていることになる。では、この義とは、どんなことを指しているのか、112篇の方をさらに続けて読んでいくと。
主は直ぐな人たちのために、光をやみの中に輝かす。
主は情け深く、あわれみ深く、正しくあられる(4節)。
この節、日本語新改訳では、「情け深く、あわれみ深く、正しく」という三つの形容詞を、111篇の4節につられたのか、神の品性を表現したものと解釈して、「主は」という主語を付け加えて訳している。ところが、112篇全体の文脈や、その言わんとするポイントを頭におけば、これらは「主の仰せを喜ぶ人」のことを言っていると取るのがよりスムーズであることが分る。つまり、これらの形容詞は、「直ぐな人」を表現し直しているだけのこと。だから、次のように訳し直すことができる。
光が、直ぐな人たちのために輝く。
情け深く、あわれみ深く、正しい者(たち)のために。
そして、さらに進んでいくと、主の仰せを喜ぶ人の義がどんな種類の義であるかを具体的に説明している。
しあわせなことよ。情け深く、人には貸し、自分のことを公正に取り行う人は(5節)。
彼は貧しい人々に惜しみなく分け与えた。
彼の義は永遠に堅く立つ。その角は栄光のうちに高く上げられる(9節)。
「自分のことを公正(mishpat)に取り行う人」とは、みなしごややもめの世話をすることを指している。これが、神のことばを喜ぶ人の大きな特徴。パウロは第2コリントの手紙で、この詩篇の9節を引用して、与えることの意味を教えている。
ひとりひとり、いやいやながらでなく、強いられてでもなく、心で決めたとおりにしなさい。神は喜んで与える人を愛してくださいます。神は、あなたがたを、常にすべてのことに満ち足りて、すべての良いわざにあふれる者とするために、あらゆる恵みをあふれるばかり与えることのできる方です。「この人は散らして、貧しい人々に与えた。その義は永遠にとどまる。」と書いてあるとおりです(2コリント9:7−9)。
与える心のない人に、神のこころは分らない。神のこころの分る人は、かならず、神のことばを愛し、それを大きな喜びとする。その生き方の中に、神の義が堅く立っている。その人は、「悪い知らせ」も恐れることがない。その家が堅い岩の上に建てられているからだ。

