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幸いなことよ。悪者のはかりごとに歩まず、
罪人の道に立たず、あざける者の座に着かなかった、その人。
まことに、その人は主のおしえを喜びとし、
昼も夜もそのおしえを口ずさむ。
その人は、水路のそばに植わった木のようだ。
時が来ると実がなり、その葉は枯れない。
その人は、何をしても栄える(詩篇1:1−3)。
この詩篇は、主のおしえを喜びとし、それを愛して口ずさむ者が、どのような者であるのかを歌っている。また、その人に約束されているものが何であるのかも述べている。それにしても、クリスチャンでこのように聖書のことばを愛し、喜びとしている人を見つけるのは、正直、あまり多くない。否定的になりたくないが、多くのクリスチャンにとって、みことばは、学ぶべきもの、持つべき知識であって、持てば自分の益になるという程度にしか思っていない。それを愛し、喜ぶレベルにまで達していないというのが、それを教えていて、私が見る現状である。なぜだろう。
人も動物も、お腹が空けば、食べ物を食べたいと思う。そして食べることを喜びとして食べる。もちろん、お腹が空いていなければ、食べたいとは思わず、それは喜びとはならない。でも、普通の健康な人ならば、半日も何も食べないでいれば、お腹が空き、食べずにはいられない。しかし、霊の糧になると、クリスチャンでも、何日も、時には、何ヶ月、何年も食べなくても、平気で生きている。不思議だ。お腹が空いていないのか。いや、絶対に空いているはずだ。聖書は、「人はパンだけで生きるのではなく、神の口からでる一つ一つの言葉による」と言っているではないか。そうならば、何が原因で平気でいられるのか。実は、本当はお腹が空いているのに、それを感じさせない何かがあるからである。
ですから、あなたがたは、すべての悪意、すべてのごまかし、いろいろな偽善やねたみ、すべての悪口を捨てて、生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、みことばの乳を慕い求めなさい。それによって成長し、救いを得るためです(1ペテロ2:1−2)。
「生まれたばかりの乳飲み子」が「乳を慕い求めて」泣くのは、お腹が空いているのが我慢できないからだ。同様に、霊の糧についても、それに対する飢え渇きがあるからこそ、それを慕い求めることができる。ところが、注目して欲しいのは、最初の「あなたは、すべての悪意、すべてのごまかし、いろいろな偽善や妬み、すべての悪口を捨てて...」という部分。なぜ、それらのものを捨てる必要があるのか。
岩の上に落ちるとは、こういう人たちのことです。聞いたときには喜んでみことばを受け入れるが、根がないので、しばらくは信じていても、試練のときになると、身を引いてしまうのです。いばらの中に落ちるとは、こういう人たちのことです。みことばを聞きはしたが、とかくしているうちに、この世の心づかいや、富や、快楽によってふさがれて、実が熟するまでにならないのです(ルカ8:13−14)。
これらの二つの地を比べてみると良い。岩地の心の人は、「喜んでみことばを受け入れる」が、いばらの生えた地の人の場合は、その喜びがない。なぜなら、「いばら」、つまり、「この世の心づかいや、富や、快楽」でもうお腹がいっぱいになっているので、みことばに対する飢え渇きを感じていないことになる。したがって、この場合、生まれたばかりの乳飲み子のように、みことばを慕い求めることはできない。
みことばを喜ぶことに関しては、他にも多くのことが言える。みことばを喜びとしない人の中に、聖書を律法的に、表面的に読む人が多い。そういう人は、みことばの甘さ、その味を知らない。ネヘミヤの時代、ユダヤ人たちが、律法の書を読んで聞かされて、それを理解したことによって、喜びに満たされた。詩篇は次のように歌っている。
あなたのみことばは、私の上あごに、なんと甘いことでしょう。蜜よりも私の口に甘いのです(詩篇119:103)。
また、聖書が単に一般的に神や人についての真理を教えているとだけ思っている人も、みことばを喜ぶことがむずかしい。そういう人は、聞いたみことばを自分に適用する時点でつまずく。次のことばを読むと良い。
そのとき私は申しました。「今、私はここに来ております。巻き物の書に私のことが書いてあります。わが神。私はみこころを行うことを喜びとします。あなたのおしえは私の心のうちにあります(40:7−8)。」

