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またキリストによって、いま私たちの立っているこの恵みに信仰によって導き入れられた私たちは、神の栄光を望んで大いに喜んでいます。そればかりではなく、患難さえも喜んでいます(ローマ5:2−3)。
私たち、神の子どもとされ、御国を受け継ぐ者が受ける神の栄光を思えば、私たちがこの地上で体験するさまざまな患難は、無に等しい。それを言うために、パウロは「患難さえも喜んでいます」と言っている。患難とは、さまざまな困難や苦しみのことで、それらを避けて、それらから逃げるようにして、少しでも楽な道を行こうとするのが私たちの本能だ。困難は悪いもの、苦しみは避けるべき、患難は嫌いだ、という思いが、それが来ることを過度に恐れる原因となっている。それで、人は岩の上よりも、砂の上に家を建て、少しでも楽な、インスタントな方法で生きようとする。その結果、結局、洪水が来た時、全部が流され、自分が一番恐れていたことが起きることになる。上のみことばは、クリスチャンたちに、そのような患難さえも喜んで、勇気を持って生きることを勧めている。
それは、患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです(3-5節)。
それは何も、患難そのものを神から与えられたものであるかのように、良いものとして受け入れることを言っているのではない。むしろ、聖書によれば、人間の体験する苦しみはみな、サタンから来ている。大事なことは、それを「恐れるな」ということ。私たちはもう既に、キリストを通して「圧倒的な勝利者」とされたではないか。勝利はすでに私たちのもの。サタンがいくらもがいても、私たちをキリストの愛から引き離すことはできない。それが私たちの信仰の告白である。
私の兄弟たち。さまざまな試練に会うときは、それをこの上もない喜びと思いなさい。信仰がためされると忍耐が生じるということを、あなたがたは知っているからです。その忍耐を完全に働かせなさい。そうすれば、あなたがたは、何一つ欠けたところのない、成長を遂げた、完全な者となります(ヤコブ1:2-4)。
この箇所では、上で見た「患難」のことを「試練」と呼んでいる。それは、「信仰がためされる」からである。その「試練」に勝利するために必要なのが、「忍耐」であり、それが結局、私たちを「完全な者」へと成長させると言う。上のローマ書で言えば、「練られた品性」を持つ人のことだ。そして、それこそが、私たちがこの地上を去って、神の身元に行く際に持っていくもので、本当に価値あるもの。だから、この真理を知っている私たちは、「患難さえも喜んでいます」という。
しかし、忘れてはならないのは、パウロやヤコブが「患難」とか「試練」とか呼んでいるものは、主に、神の器がみことばを伝え、神の働きがこの地上になされる際に伴う、迫害や苦労のことを指していること。実は、彼らにとって、病気との戦いや、物質的な必要が満たされるための苦労などは、問題ではなく、そのための心配など、彼らの脳中にはなかった。そこが、今日のクリスチャンたちにとって分らない所。私たちは、パウロや当時の使徒たちの信仰を軽く見過ぎているとも言える。問題になるのは、第2コリントの次の箇所。
また、その啓示があまりにもすばらしいからです。そのために私は、高ぶることのないようにと、肉体(sarx文字通りは、肉)に一つのとげを与えられました。それは私が高ぶることのないように、私を打つための、サタンの使いです(2コリント12:7)。
多くのクリスチャンが、この箇所から、パウロが何らかの持病に苦しんでいたと解釈する。新改訳も、他の箇所では「肉」(罪の性質の宿る人の心の部分、つまり魂のこと)と訳しているギリシャ語のsarx を、ここでは、「肉体」と訳している。それは、最初から、この「とげ」を病気のことだと解釈しているからだ。これは、教会歴史の中でも最大な誤解の一つ。
この誤解を解くためには、むずかしい神学や、ギリシャ語の知識を必要とするわけではない。文脈を良く読むこと。11章にもどって、彼が「弱い」とか「弱さ」とか言っているものが何を指しているのかを探ること。そもそも、この話しは、コリントの教会の人々が人間的なものを誇って高ぶっていたので、その間違いに気付かせるために、パウロが自分の「弱さ」を誇ることから始まった。「弱さ」、「弱い」ということばに全部マークしながら、それが本当に病気のことを言っているのかどうか、ゆっくりと自分の目で読んでみると良い。

