Show notes
いつも喜んでいなさい。
絶えず祈りなさい。
すべての事について、感謝しなさい。
これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです(1テサロニケ5:16-18)。
あなたがこの世に生きている限り、あなたにとってうれしくないこと、喜びとはならないこと、感謝できないことが必ず起きる。それでも、上のみことばは、「いつも」喜んでいること、また「すべての事について」感謝することを勧めている。そのようなことが、どうしてできるのか。
当然、そうするためには、あなたの環境で毎日起きる様々な出来事に対して、生まれながらの本能にしたがって反応する仕方で対処していては、何の解決にもならない。「いつも」喜んでいることも、「すべての事について」感謝することも、その全く逆をするように勧めているからである。そのためには、聖書の教える信仰が要求される。つまり、みことばによって教えられなければ、誰もすることは出来ない。聖書には、次のようなことばがある。
またキリストによって、いま私たちの立っているこの恵みに信仰によって導き入れられた私たちは、神の栄光を望んで大いに喜んでいます。そればかりではなく、患難さえも喜んでいます(ローマ5:2−3)。
良き神を喜び、その栄光を喜び、そこから流れてくるいのちと祝福を感謝することはむずかしくはなく、クリスチャンであるならば、自然にできること。しかし、「患難」を喜ぶとは、どういうことだろうか。どのようにするのであろうか。それが分れば、「いつも」喜んでいることも、「すべての事について」感謝することもできるはず。
まず知らなくてはならないのは、私たちの持つ「患難」は、私たちと、私たちを造られた神との敵対関係に由来すること。言うまでもなく、その敵対関係は、私たちの罪の結果であり、その時以来、私たちは「患難」を異常に恐れ、心配、思い煩いを持って生きることが普通になってしまった。唯一の解決の方法は、そのような人類が神と和解することだ。和解とは、仲直りすること。そのためにこそ、神は、キリストをこの地上に送ることによって、罪人となってしまった私たちに自ら和解の手を差し伸べて下さった。
私たちは、キリストに代わって、あなたがたに願います。神の和解を受け入れなさい。神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです(2コリント5:20−21)。
旧約聖書の律法においては、神様がイスラエル人にいろんな種類のいけにえを捧げることを命じられたが、それらはみな、やがてキリストを通してもたらされる救いの意味を私たちに教えるためのものであった。キリストは、それらすべてのいけにえとして死んで行かれた。そのいけにえの中で、特に注目して欲しいのが、「和解のいけにえ」。それは、そのいけにえを通して、敵対関係にあった私たちが、神と和解し、彼を喜びとし、恐れることなく、その御前で生きていくためのものであった。旧約聖書にいくつか、その例を見ることができるので、頭に入れて置くと良い。その知識を前提に、パウロは、次のように言っている。
もし敵であった私たちが、御子の死によって神と和解させられたのなら、和解させられた私たちが、彼のいのちによって救いにあずかるのは、なおさらのことです。そればかりでなく、私たちのために今や和解を成り立たせてくださった私たちの主イエス・キリストによって、私たちは神を大いに喜んでいるのです(ローマ5:10-11節)。
この「神を大いに喜んでいる」喜びが、サタンの業である「患難」さえも包み込んでしまい、それさえも喜ぶことのできる信仰を生み出す。それが滅びに至る人々には単なる災いであっても、私たちの神は、すべてことを働かせて益とすることによって、それを消えることのない、いつまでも残る希望に変えてしまわれる。
それは、患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです(3-5節)。

