ダヴァール神の国
ダヴァール神の国
Davar Kingdom of God
喜びと感謝の力 No.9
1 hour 6 minutes Posted Jan 6, 2013 at 9:09 am.
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父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。わたしの愛の中にとどまりなさい。(ヨハネ15:9)。
人は、自分が愛されて、初めて他の人を愛することができる。自分が赦されて、他の人をも赦すことができる。問題は、自分がどれだけ神様に愛されているかを知っていることだ。それを知っていて他の人を愛さない人はいない。人を赦せないで困っている人がいるとすれば、実は、それは、自分がどのように神様に赦されているかを知らず、それを感謝もしていないからである。「わたしの愛の中にとどまりなさい」ということばをよく瞑想すると良い。
このことばは、イエス様が、十字架にかかられる前の晩、弟子たちと過越の食事をされている時に語られたことば。そのスピーチ全体が、弟子たち(今の私たちをも含めた)と結ばれた契約のことばであった。契約は、それを結ぶパートナー同士の愛の誓いである。契約を結ぶということは、互いの愛の誓いの中に入ることを意味する。それが、「わたしの愛の中にとどまりなさい」ということばに表現されている。この愛は、弟子たちがイエス様を愛する愛のことではなく、イエス様が弟子たちを愛する愛のことである。ここに、この契約の特殊性がある。「わたしを愛しなさい」ではなく、「わたしがあなたがたを愛する愛の中にとどまりなさい」ということだ。
ただ契約には、必ず約束、つまり、守るべき規則がついてくる。それは、言い換えれば、愛される者として当然要求される義務のことだ。
もし、あなたがたがわたしの戒めを守るなら、あなたがたはわたしの愛にとどまるのです。それは、わたしがわたしの父の戒めを守って、わたしの父の愛の中にとどまっているのと同じです(10節)。
この「戒め」がそれにあたる。ただし、この「戒め」は、古い契約の「神を愛しなさい。そうすれば...」というような、祝福のための条件としての戒めとは異なる。むしろ、「神が愛して下さったので」当然守るべき戒めのことである。それが、「わたしの愛にとどまりなさい」ということばに表現されている。イエス様の私たちを愛する愛がある限り、どんなことがあっても、この契約が破られることはない。そこが凄い!
わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、わたしの喜びがあなたがたのうちにあり、あなたがたの喜びが満たされるためです(11節)。
ただ、私たちが不信仰によって彼の愛にとどまらない場合、私たちが「喜び」に満たされることがないことを教えている。私たちは、この「喜び」が大きな力であることをよく知っている。
わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです(12節)。
この戒めが、戒めと言うより、赦され、愛される者として当然の義務であることを知るためには、マタイ18:21以降の例え話を読んでいく。