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なぜなら、神の国は飲み食いのことではなく、義と平和と聖霊による喜びだからです(ローマ
神から来る喜びは、霊的なものである。上のみことばは、それを「聖霊による喜び」と呼んでいる。世が与える表面的な喜びは、外側からの刺激によって与えられるもので、すぐに消えてしまう。しかし、人の内側、即ち、霊を通して与えられる、神からの喜びは消えることがない。神の国の存在する所には、そのような喜びが必ずある。
喜びを持つ人は、それを他の人と分かち合いたいと願う。喜びはいっしょに喜ぶもの。これは、人も、天使も、また神様ご自身も同じである。
見つけたら、大喜びでその羊をかついで、帰って来て、友だちや近所の人たちを呼び集め、「いなくなった羊を見つけましたから、いっしょに喜んでください」と言うでしょう。あなたがたに言いますが、それと同じように、ひとりの罪人が悔い改めるなら、悔い改める必要のない九十九人の正しい人にまさる喜びが天にあるのです(ルカ15:5-7)。
これが天にある喜びの典型的なもの。喜びは天にあり、そこから人に与えられるもの。
御使いは彼らに言った。「恐れることはありません。今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。あなたがたは、布にくるまって飼葉おけに寝ておられるみどりごを見つけます。これが、あなたがたのためのしるしです(ルカ2:10−12)。」
考えて見れば、人類の救いは、天使たちにとっては、直接関係のないものであるのに、キリストの誕生が、彼らにとっても「すばらしい喜び」であるという。その喜びを、一番知らないのが人間たち本人である。それを分かち合うために、この羊飼たちが選ばれた。あなたや私が選ばれ、神の国に入れられたのも同じだ。神の国は、義と平和と聖霊による喜びである。
私たちの与えられる喜びが天からもので、神がその喜びを私たちに分け与えて下さるものであるならば、実は、その喜びを味わうために必要な、非常に大切なことがある。
すでに、刈る者は報酬を受け、永遠のいのちに入れられる実を集めています。それは蒔く者と刈る者がともに喜ぶためです(ヨハネ 4:36)。
ご自分を一粒の麦として地に蒔いて下さったのはイエス様。私たちは、畑に出て行って、その実を刈り取る者である。蒔く方は自分の命を捨てられたが、私たちは、彼が蒔いて下さったものを刈り取るだけ。そして、それは「蒔く者と刈る者がともに喜ぶため」だと言う。ということは、その喜びは、刈り取りのために畑に行って働く者に与えられる特権である。でも、もし私たちがその働きをしなかったらどうであろうか。

