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あなたがたはこのおびただしい大軍のゆえに恐れてはならない。気落ちしてはならない。この戦いはあなたがたの戦いではなく、神の戦いであるから(2歴代誌20:15)。
これは、モアブ人とアモン人の大軍に攻められて窮地に立たされたヨシャパテ王に与えられた神のことば。「この戦いはあなたがたの戦いではなく、神の戦いであるから」という部分に注目。さらに、神様は言われた。
この戦いではあなたがたが戦うのではない。しっかり立って動かずにいよ。あなたがたとともにいる主の救いを見よ。ユダおよびエルサレムよ。恐れてはならない。気落ちしてはならない。あす、彼らに向かって出陣せよ。主はあなたがたとともにいる(17節)。
ここに、この世界で私たちが直面する様々な問題や必要に勝利するための大きな鍵がある。勝利は、聖書によれば、キリストを通してもうすでに私たちの手の中にあるが、それをこの世界で実現させるかどうかは、一人一人の信仰と、それに伴う行動にかかっている。その信仰とは、上で見るような、「この戦いはあなたがたの戦いではなく、神の戦いである」という信仰である。
ヨシャパテ王が、このような神のことばを受けて、この真理の上に立つことが出来たのは、その問題に対する彼の考え方の変化による。人が、自分の直面する問題を、自分の問題と考えたり、その必要を、自分が満たさなくてはならない、自分の必要だと考えたりしている間は、奇蹟は起きにくい。神様が使うことのできる信仰が、その人の内にないからである。さらに押し進めて、では、どうしてそういった信仰を持つことが出来ないのかと言うと、それらの問題や必要を、神様、神の国、また教会とは関係のない、自分の益、あるいは自分の家族の益のレベルでしか考えていないからである。その問題や必要がゆえに、自分が個人的に困っているのは確かなので、そこから解放され、必要が満たされて欲しいと願うが、それが、天地を造られた神の御名による、「神の戦いである」という所まで、それを結びつけて考え、また信じることができない。ここに大きな原因がある。当然のことながら、神にある自分のイメージが小さい人には無理(それでも、神様は恵みによって、一人一人の必要を満たし、問題を解決して下さるのも真理であるが)。
その点で、ダビデがゴリアテと戦った話しは、非常に役に立つ。よく瞑想して、ぜひこの真理を自分のものにすると良い。ダビデは、兄弟たちにも馬鹿にされるぐらい、家族の中で全く認められない
年下の息子であった。それがゆえに、彼の兄弟たちがサウル王の下で戦いに出ていた時も、彼は、自分の父の羊の世話を朝から晩までさせられていた。ところが、そんなダビデの中に、やがて神の民の立派な王になる素質がどんどん育っていた。これは神様の働きによる。
このしもべは、獅子でも、熊でも打ち殺しました。あの割礼を受けていないペリシテ人も、これらの獣の一匹のようになるでしょう。生ける神の陣をなぶったのですから(1サムエル17:36)。
ダビデも、ヨシャパテ王同様、この戦いが神の戦いだと考え、その勝利を信じて、疑うところが少しも見られない。どうしてか。ダビデはゴリアテに向かって言った。
おまえは、剣と、槍と、投げ槍を持って、私に向かって来るが、私は、おまえがなぶったイスラエルの戦陣の神、万軍の主の御名によって、おまえに立ち向かうのだ。きょう、主はおまえを私の手に渡される。私はおまえを打って、おまえの頭を胴体から離し、きょう、ペリシテ人の陣営のしかばねを、空の鳥、地の獣に与える。すべての国は、イスラエルに神がおられることを知るであろう。この全集団も、主が剣や槍を使わずに救うことを知るであろう。この戦いは主の戦いだ。主はおまえたちをわれわれの手に渡される(45-47節)。

