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主をおのれの喜びとせよ。主はあなたの心の願いをかなえてくださる(詩篇37。:4)
主をおのれの喜びとすると、主があなたの心の願いをかなえてくださるという。すばらしい約束だ。つまり、主をおのれの喜びとしている時、その祈りは神様に聞かれる。それだけではなく、あえて祈る前から、神様がその心を探って、先にその願いをかなえて下さる。では、「主をおのれの喜びとする」とは、いったいどういう意味だろうか。
実は、この世に生きる人間たちのほとんどが、主をおのれの喜びとすることを止めてしまった。それはいつからかと言うと、次のように書いてある。
このようにして、ふたりの目は開かれ、それで彼らは自分たちが裸であることを知った。そこで、彼らは、いちじくの葉をつづり合わせて、自分たちの腰のおおいを作った。そよ風の吹くころ、彼らは園を歩き回られる神である主の声を聞いた。それで人とその妻は、神である主の御顔を避けて園の木の間に身を隠した(創世記3:7−8)。
彼らがその時初めて裸であることを知ったということは、それまで、それを知らなかったということだ。
人とその妻は、ふたりとも裸であったが、互いに恥ずかしいと思わなかった(2:25)。
これらの描写はみな比喩的なもので、彼らの霊的な状態を示したもの。よく瞑想してみると良い。彼らが自分たちが裸であることを知ったということは、自分自身を見つめたからである。そして、自分たちが裸であることを恥ずかしく思わなかったとは、自分を意識して考えるということがなかったということだ。その時には、いつも神様を見つめて喜んでいた。つまり、彼らは主をおのれの喜びとしていた。
言い換えれば、人が主にある喜びをなくすのは、自分という人間を見るからである。そこには、力のない、罪と間違いを犯し、失敗だらけの自分。それでも自分を何者かのように見せる人は、みな嘘つき。何かの困難や、自分の恥になりそうな状況においては、すっと手を引く。人はみな、自分の無力さ、自分の力には限度があることを知っている。私たちは、神に造られた被造物であって、神ではない。しかも、キリストを知る前の私たちはみな、サタンに負けて、その奴隷として歩んでいた。したがって、そのような自分を見て喜びに満たされる人など、誰もいない。そもそも、人は最初から自分を見るようには造られていないのである。
ですから、今はキリストにある私たちがしなければならないことは、そのような古い自分を見つめることを止めて、常に「主をおのれの喜び」のすることだ。そこには、キリストにあって完全に新しくされ、主の御前でいつも喜んでいる自分がいる。
主よ。王はあなたの御力を、喜びましょう。
あなたの御救いをどんなに楽しむことでしょう。
あなたは彼の心の願いをかなえ、
彼のくちびるの願いを、退けられません。セラ(詩篇21:1−2)
あなたは、とこしえに彼を祝福し、
御前の喜びで彼を楽しませてくださいます(6節)。

