ダヴァール神の国
ダヴァール神の国
Davar Kingdom of God
聞く耳の育て方 No.20
1 hour 6 minutes Posted Oct 6, 2012 at 9:09 am.
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わたしに向かって、「主よ、主よ」と言う者がみな天の御国に入るのではなく...その日には、大ぜいの者がわたしに言うでしょう。「主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって...奇蹟をたくさん行ったではありませんか。」しかし、その時、わたしは彼らにこう宣告します。「わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け(マタイ
人はみな、祭りが好きである。祭りは、一人ではできない。「大ぜいの者」が集まり、「私たちは」と言いながら、自分がその集まりに属する者として、ともに喜び合う。聖書も、神の民が集まって、その恵みをともに喜び合うことを勧めている。しかし、それは、そこに集まる人々が、個人のレベルで神様を知り、彼との交わりの中にあることが大きな前提である。天国に入る門は小さく、狭い。それは、一人の人が、神様との個人的な関係でのみ、入ることのできる広さである。両親が信者であるから、その子どもが自動的に救われる訳ではない。あなたがどこかの教会に属し、その会員であるから、救われているのではない。
上の「私たち」ということばに注目。ここに、彼らの誤解の原因がある。「私たち」は複数。ところが、天の門は、一度に一人ずつしか入ることができない。
パリサイ人やサドカイ人たちがみそばに寄って来て、イエスをためそうとして、天からのしるしを見せてくださいと頼んだ(マタイ16:1)。
いつもは、互いに意見が合わず、ライバル同士で、仲の悪い、パリサイ人とサドカイ人がいっしょになって、イエス様に「天からのしるし」を求めた。その「しるし」とは、彼がキリストであることを証明する「しるし」のこと。彼らのキリストとは、イスラエルの国をローマの圧制から救い出してくれるメシアのこと。もし彼がそのキリストであるならば、彼を王とし、自分たちのためにローマと戦い、独立を勝ち取ってもらおうと計画していた。実は、ニコデモも同じことを考えて、ある夜、ひっそりと自分だけで、イエス様の所に来て言った。
先生。私たちは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神がともにおられるのでなければ、あなたがなさるこのようなしるしは、だれも行うことができません(ヨハネ3:2)。
彼は、一人できたのに、「私たちは...」と言っている所に注目。彼の属するグループ、パリサイ人、あるいは、サンヘドリンの集まりのことを指している。そして、イエス様の答えは:
まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません(3節)。
「人」とは、一人の人、「神の国」は霊的なもので、イスラエルのことではない。イエスをキリストと信じるペテロ自身も、この点においては、パリサイ人やサドカイ人と変わりなかった。イエス様がご自分の死のことを預言されると、彼を叱って、「主よ。神の御恵みがありますように。そんなことが、あなたに起こるはずがありません」と言った。聞く耳を持たなかったからだ。イエス様は言われた。
だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者は、それを見いだすのです(マタイ16:24-25)。
この時のペテロは、イエス様の言われる「わたしについて来たい」ということより、祭りのど真ん中にいる自分を喜んでいた。このギャップが崩れたのが、彼がイエス様を知らないと三度言った時。人は、祭り意識の中では、みことばを聞く耳を持たない。何度も聞いたはずの、イエス様の死と復活の預言のことばも、ペテロには全く理解できなかった。なぜなら、そのことばが彼にとって非常に愚かであったからだ。
十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です(1コリント1:18)。