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わが子よ。私のことばをよく聞け。私の言うことに耳を傾けよ。
それをあなたの目から離さず、あなたの心のうちに保て。
見いだす者には、それはいのちとなり、その全身を健やかにする。
力の限り、見張って、あなたの心を見守れ。いのちの泉はこれからわく(箴言
みことばを聞く耳を持つためにどうしても必要な態度がある。それは、自分の心をよく見つめること。自分の心を見つめると言っても、自分の弱点や、自分の犯した罪や間違いをいつまでも見つめることではない。それらを見つめるならば、暗闇に落ちる。イエスを信じる者はみな、罪が赦されて、完全に神の義とされた。罪は、神の御前でもう覚えられていない。また、弱点は、神にあって用いられて益となる。私たちが見つめなくてはならないのは、私たちの中の霊であり、そこに住まわれる神、そして、私たちの心に蒔かれたみことばである。
あなたがたは、髪を編んだり、金の飾りをつけたり、着物を着飾るような外面的なものでなく、むしろ、柔和で穏やかな霊という朽ちることのないものを持つ、心の中の隠れた人がらを飾りにしなさい。これこそ、神の御前に価値あるものです(1ペテロ
ここで「隠れた人がら」と訳されているのは、本当は、「隠れた人」とすべき。人の性格の意味ではなくて、人格を持った、人の霊のことで、「柔和で穏やかな霊」と呼んでいるものである。それこそ、「神の御前に価値あるもの」と言っている。
真理が私たちに分りにくいとするならば、その理由は、それが高度な知能を要求する、難解なものであるからではなく、子どもでも分るような単純な真理というものが、私たちが世の中で習った生き方や考え方とずいぶん異なるからである。時には、完全に反対であることもある。例えば、下のようなみことばは、どうだろうか。
みなの人がほめるとき、あなたがたは哀れです。彼らの父祖たちも、にせ預言者たちに同じことをしたのです(ルカ
人にほめられて、それを「哀れ」と思う人がどこにいるだろうか。しかし、このみことばによれば、人にほめられて喜んでいる人は、みな真理から離れている。その人は、真理が分っていないことになる。「にせ預言者」のことがここに出てくるが、どういう意味だろうか。以下の箇所でも、「にせ預言者」のことが話題にされている。
狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこから入って行く者が多いのです。いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。にせ預言者たちに気をつけなさい。彼らは羊のなりをしてやって来るが、うちは貪欲な狼です(マタイ
「狭い門から入りなさい」とはどういう意味だろうか。それに比べて、「滅びに至る門は大きく、その道は広い」とは、どういう意味だろうか。その話しの中で、「にせ預言者に気をつけなさい」となっているが、どういう意味だろうか。そして、しばらく進むと、次のようなことばがある。
わたしに向かって、「主よ、主よ」と言う者がみな天の御国に入るのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行う者が入るのです。その日には、大ぜいの者がわたしに言うでしょう。「主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇蹟をたくさん行ったではありませんか。」しかし、その時、わたしは彼らにこう宣告します。「わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け(マタイ
このことばに多くのクリスチャンがつまずく。イエスの名によって預言し、イエスの名によって悪霊を追い出し、イエスの名によって奇蹟をたくさん行なうような人たちが、どうして、イエス様に「わたしはあなたがたを全然知らない」と言われなくてはならないのか、その意味が分らないからである。実は、一番最初に見た箴言のことばの意味が分っていれば、このようにイエス様に「全然知らない」と言われるような人たちの部類に属することはないはず。この真理が分らずに、聞く耳を持たず、サタンに騙されているクリスチャン(自称)が「大ぜい」いる。よく瞑想することを勧める。

