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しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです(ローマ
神様は人間のすべてをご存知だ。この真理を、私たちは、知っているようで知っていない。人は、自分が他人のことを知ることも、また自分のことを他人に理解してもらうことも難しいことを知っているので、神様に対しても同じだと思っている。神様は私たち一人一人を造られた方。同じだと思ってはならない。私たちは、自分のことすらよく知らないでいるが、神様は、私たちのこと全部をご存知。そのうえで、私たちを愛し、導いて下さる。私たちの肉体のことは、言うまでもなく、私たち一人一人の性格、心の内にあるどんな小さな悩みも、全部ご存知でお見通し。その神様を信頼し、彼のかわいい子どもとして、その愛に飛び込んでいくことだ。
私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません(ローマ
世界中どこにおいても、いつの時代でも、もっと言えば、この地上の世界であろうと、霊の世界であろうと、絶対に変わらないのは、神の私たちに対する愛である。パウロは、ステパノが殺されることに賛成し、彼が石打にされる所を目撃していた。その後も、クリスチャンに対する殺害の意に燃え、教会を激しく迫害した。それにもかかわらず、生まれる前から自分を選び、恵みをもって自分を召して下さった、キリストの愛を知った時、彼の目が開かれた。不思議なことに、そのような失敗をした彼のことを、イエス様が責めるようなことばはいっさい見つからない。
私が「主よ。あなたはどなたですか」と言いますと、主がこう言われました。「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。起き上がって、自分の足で立ちなさい。わたしがあなたに現れたのは、あなたが見たこと、また、これから後わたしがあなたに現れて示そうとすることについて、あなたを奉仕者、また証人に任命するためである。わたしは、この民と異邦人との中からあなたを救い出し、彼らのところに遣わす。それは彼らの目を開いて、暗やみから光に、サタンの支配から神に立ち返らせ、わたしを信じる信仰によって、彼らに罪の赦しを得させ、聖なるものとされた人々の中にあって御国を受け継がせるためである(使徒26:15−18)。」
これは、イエス様を知らないと三回も否定したペテロにとっても同じであった。三回目に否定した時、イエス様がちょうど大祭司の家から連れ出されて来るところで、彼は振り向いてペテロを見られた。ペテロは、出て行って激しく泣いた。その時のイエス様の顔が忘れられなかったからだ。復活の後、イエス様が彼に会われた際、彼の犯した間違いに触れるようなことばは、そこにもいっさい見当たらない。むしろ、彼に「私の羊を飼いなさい」と言われた。
サマリヤの井戸端でイエス様に会った女も同じ。彼女には、誰にも触れられたくない過去があった。しかも、それが現在も進行中であった。しかし、彼女との会話の中に、イエス様がその間違いを咎め、責めるようなことばはいっさい出て来ない。彼に会ったことを喜んだ彼女は、出て行って町の人々に彼のことを伝えた。その日、大きなリバイバルがその町に起きた。彼女がそのように変わることができたのは、神の愛による。彼女は神に完全に知られていた。
放蕩息子の例え話も同じ。父から受け取った財産を湯水のように使い果たしてしまった弟息子は、確かに父に対して大きな罪を犯した。しかし、父は最初からすべてをご存知であった。彼が変わるためには、それしか道がなかった。我に返って、父のもとにもどって来た弟息子に対する、父の行動やことばに注目すると良い。どこに、彼を咎め、責めるような態度やことばがあるだろうか。
こうして彼は立ち上がって、自分の父のもとに行った。ところが、まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけ、かわいそうに思い、走り寄って彼を抱き、口づけした(ルカ15:20)。
神様はあなたのすべてをご存知。あなたを責める気は一つもない。あなたをあるがままの状態で受け入れ、あなたを導こうと待っておられる。その愛の中に飛び込むだけだ。
こうしてキリストが、あなたがたの信仰によって、あなたがたの心のうちに住んでいてくださいますように。また、愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがたが、すべての聖徒とともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように。こうして、神ご自身の満ち満ちたさまにまで、あなたがたが満たされますように(エペソ3:17−19)。

