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なぜなら、私たちの福音があなたがたに伝えられたのは、ことばだけによったのではなく、力と聖霊と強い確信とによったからです。また、私たちがあなたがたのところで、あなたがたのために、どのようにふるまったかは、あなたがたが知っています(1テサロニケ
聖霊が私たちのみことばの理解を助けて下さることは、クリスチャンならば、みな知っているはず。みことばを理解して、それを受け入れて信じないことには、せっかくのみことばが力をもって生活の中で働かないからである。上のみことばは、パウロがテサロニケの人々に福音を伝えた時、それが「力と聖霊と強い確信」によったことを述べている。「強い確信」は「聖霊」によるものであって、それが「力」となって働いた。
あなたがたも、多くの苦難の中で、聖霊による喜びをもってみことばを受け入れ、私たちと主とにならう者になりました(6節)。
彼らは、「聖霊による喜びをもってみことばを受け入れた」。これが聖霊の働きだが、決して、彼らは盲目的に、単に感情的にみことばを受け入れたのではない。そもそも、人は、真理かどうか確かではないと思われることを受け入れることはできない。パウロが語ったのは、「強い確信」によったと述べている。「確信」は、それが真理だと理解することから来る。真理の理解が人に確信を与える。そして、理解は、感情によるのではなく、理性による。
人の理性による理解は、霊的なことも含む。しかし、多くのクリスチャンが、みことばとなると、頭を使ってはならないと思っている。確かに、私たちがこの世で考えることは、神のみこころに反したことが多い。だからと言って、理性そのものが悪いのではない。理性は神から与えられた賜物であり、すべての人格的存在が所有する能力である。神のかたちの大切な一部。
しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます(ヨハネ
この一つの例として、以下のような話しを考えてみると良い。
イエスは彼らに答えて言われた。「この神殿をこわしてみなさい。わたしは、三日でそれを建てよう。」そこで、ユダヤ人たちは言った。「この神殿は建てるのに四十六年かかりました。あなたはそれを、三日で建てるのですか。」しかし、イエスはご自分のからだの神殿のことを言われたのである。それで、イエスが死人の中からよみがえられたとき、弟子たちは、イエスがこのように言われたことを思い起こして、聖書とイエスが言われたことばとを信じた(ヨハネ
これは、イエス様のミニストリーの最初の頃の話し。弟子たちも、この時点では、イエス様のことばの意味が分らなかった。しかし、彼の死と復活のあと、聖霊の助けによって、そのことばを「思い起こす」ことができた。注目すべきは、「聖書とイエスが言われたことばを信じた」という部分。イエス様の語られたことばだけではなく、「聖書」のことばから、その意味が理解できたということだ。そして、その理解が、「信じる」という結果を生み出した。この意味をよく瞑想すると良い。言い換えれば、聖書にある数々のことばが、蜘蛛の巣のように糸を引いて、イエス様の語られたことばと結びついて、「なるほど」と分ったということだ。それが聖霊の助けである。
神様が人とコミュニケートされるには、決まったルートがある。扉を通してではなく、塀を越え、壁を打ち破って攻撃してくるのは、悪魔である。
見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところに入って、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする(黙示録
この「戸」とは、人の霊のこと。神様はこの霊を通して、人に語られる。
人間の息は主のともしび、腹の底まで探り出す(箴言
「人間の息(ニシュマー)」とは、神様が人の鼻に吹き込まれた「いのちの息」のこと。そして、この息である人の霊と直接つながっているのが、理性(ヌース)である。聖霊様が働いて助けて下さるのは、この部分。大いに用いるべきだ。

