ダヴァール神の国
ダヴァール神の国
Davar Kingdom of God
聞く耳の育て方 No.15
1 hour 6 minutes Posted Aug 25, 2012 at 9:09 am.
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しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます(ヨハネ
聖霊様の働き方に関しては、使徒の働きにおいて、初代教会や、使徒たちがみことばを異邦人の町々に伝えていく様子を見る時、たくさんのことを学ぶことができる。聖霊は神様のおひとりなので、その方について知らなければ、神様について知るべきことの三分の一を知らないことになる。上のみことばにあるように、聖霊は私たちに「すべてのことを教え」、イエス様の語られた「すべてのことを思い起こさせてくださる」と言う。これが聖霊様の役目であるが、それにしても、聖霊はどのようにして私たちに「すべてのことを教え」てくださるのだろうか。
さて、兄弟たち。御霊の賜物(霊的なこと)についてですが、私はあなたがたに、ぜひ次のことを知っていていただきたいのです(文字通り:無知であってほしくありません)(1コリント
聖書は、感情的に読むことが良いことのように、多くのクリスチャンが頭のどこかで思っている。感情が悪いものだという意味ではないが、感情的に燃えることと、みことはを悟ることは同じではない。上のみことばによれば、「霊的なこと」は、「知ること」のできるものであるという。聖書の真理は、聖霊によって教えてもらうことのできるもの。みことばを教えてもらうのは、それを理解し、知り、そして信じるためである。理解できないことは、知ることができず、知らないことは、信じることができない。
自分の生活のことに関しては、本当に良く頭を使い、考え過ぎて心配したり、悩んだりする人が、聖書のことに関すると、驚くほど頭を使って考えようとしない。また、この世のことに関しては、先々を見通して、うまく計算し、その準備をしていくが、霊的なことに関しては全く見る目がなく、今自分が神様とどのような関係にあるのか、また霊的にどんなことが自分に起きているのかを把握することができない。
その理由は、聖書というものが、頭を使って理性的に理解できるものだということを知らないことにある(つまり、聞く耳を持たないことと同じ)。むしろ、教会では、理性的、科学的な質問をすると、聖書が間違っていることが分ってしまうことを恐れるかのように、わざとはっきりしない話し方をして、「物事は、聖書に書かれているようにはうまくいかないものだ」と心の中で言いながら、互いに慰め合っているように見える。それでも教会に通い、聖書が神のことばであると告白するので、偽善的、また律法的な宗教家になってしまう。それは、無知からくる不信仰以外、何物でもない。
実は、霊的な事柄は、人に知ることが許されていることに関しては、みな理性的に説明でき、人に理解できることである。だからと言って、聖書に書かれていることが全部、もう既に、完全に人によって理解されたと言っているのではない。とんでもない。それに無限に近づくことはできても、そこに完全に到達することは不可能。でも、最低、私たちに理解されたことに関しては、すべて、理性的に説明のできることである。それをよく表しているのが、ギリシャ語のロゴス、またその形容詞のロギコスということば。
ですから、あなたがたは、すべての悪意、すべてのごまかし、いろいろな偽善やねたみ、すべての悪口を捨てて、生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、みことばの乳(ロギコスの乳)を慕い求めなさい。それによって成長し、救いを得るためです(1ペテロ
「みことばの乳」の「みことば」という言葉が、ギリシャ語では、ロギコス。ロギコスとは、「ことば」の意味のロゴスの形容詞で、「霊的」という意味と、「理性的」という意味の両方を持っている。英語のlogic、またlogicalは、そこから来た言葉。現代人の頭では、「霊的な」ことと「理性的」なこととを結びつけて考えることは不自然に思える。そこが私たちの落とし穴になっている。ロゴスとは、初めに存在した「ことば」のことで、宇宙がそれによって作られ、また成り立っている「理性」のこと。それは、科学によって証明される自然の法則をも含んでいる。上のみことばでは、神のことばのことを、ロギコスという形容詞で表現して、その「乳」と呼んでいる。つまり、「霊的な乳」は、同時に「理性的な乳」でもある。自然の法則が、人間の理性によって科学的に理解されるように、霊的な神のことばも理性を使って理解されるものだということだ。その「乳」は霊の糧として理性的に吸収されていくもの。そして、聖霊が私たちを助けて、みことばの真理を教えて下さるとは、そこの部分におけるものだということを、多くのクリスチャンが知らない。
ところが、いわゆるリベルテンの会堂に属する人々で、クレネ人、アレキサンドリヤ人、キリキヤやアジヤから来た人々などが立ち上がって、ステパノと議論した。しかし、彼が知恵と御霊によって語っていたので、それに対抗することができなかった(使徒6:9-10)。