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聖書のことばは、キリストとの交わりの中で学ぶもの。キリストとの交わりのない状態で、みことばを聞き続けると、律法主義に陥る。パリサイ人や律法学者の過ちは、まさにそこにあった。彼らには、聖書は単なる文字であり、神のことばとなっていなかった。だからと言って、彼らが神の存在を否定していたのでも、聖書が神のことばであることを信じていなかった訳でもない。ただ、自分たちの信じている神のみことばの言わんとする意味が理解できず、そのみこころを知ることがなかった。聞く耳がなかったからである。
聖書のことばは、キリストに来て初めて学ぶことができる。それは、みな私たちが霊の世界ですること。キリストとの個人的な交わりの中で初めて、みことばが分る。いくら、キリストについて聞き、学んでも、その方を個人的に知るようにならなくては、聖書のことばを理解することはない。
しかし、あなたがたはキリストを、このようには学びませんでした。ただし、ほんとうにあなたがたがキリストに聞き、キリストにあって教えられているのならばです。まさしく真理はイエスにあるのですから(エペソ
真理を学ぶことは、キリストを学ぶことと同じ。真理は、何かの法則や定理ではなく、生きたお方である。その方を学び、知ることは、学校で歴史や数学を学ぶこととは違う。その点、聞く耳を持つことの意味が分らない人が多い。クリスチャンであっても、キリストのことを、まるで額に入れて壁にかけた絵画のように考えている。その絵に向かって話しかけても、絵があなたに話しかけることはない。二千年前に生きて、多くの奇蹟を行い、人類の罪のために十字架にかかって死なれ、三日目に甦られた。ただ、それだけ。それが、あなた自身のためであるとも、その方が今、まさにあなたの中に住み、個人的にあなたを知り、あなたもその方を知っているという意識がない。大勢の群衆の中に混ざって、キリストを眺めているだけ。その方が自分のことを個人的に知り、思い、愛していて下さるという実感がない。
大事なことは、まず、聖書全体が、真理であるキリストを啓示したものであること。聖書は、私たちがその方を知るために書かれたもの。イエス様の次のことばを思い出してほしい。
あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思うので、聖書を調べています。その聖書が、わたしについて証言しているのです。それなのに、あなたがたは、いのちを得るためにわたしのもとに来ようとはしません(ヨハネ
聖書を長年学び続けても、まだイエス様のところへ来ていない人もある。聖書を学ぶとは、キリストというお方を知ることである。あなたが、誰か、まだ会ったことのない人について知ろうとする場合、その人の育った家族のこと、通った学校や、職歴などについて調べて知ったとしても、それでその人を知ったことになるだろうか。実際に会ってその人と話したこともなければ、他人と同じ。同様に、いくら福音書にあるキリストに関する記事を読んだとしても、彼との個人的な交わりがなければ、みことばが力をもってあなたの生活に働くことはない。
人がキリストにあって教えられ始めると、必ず起きる一つの兆候がある。それは、彼のために生きようとする願いを持つようになること。かつてはパウロもクリスチャンを迫害する者であったが、ダマスコへの途上でキリストに巡り会って、今度は、逆に迫害の中をキリストを宣べ伝える者になった。キリストに会うことによって、以前の聖書の読み方が180度変化したからである。
というのは、キリストの愛が私たちを取り囲んでいるからです。私たちはこう考えました。ひとりの人がすべての人のために死んだ以上、すべての人が死んだのです。また、キリストがすべての人のために死なれたのは、生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためなのです(2コリント
ここまで彼を変えたのは、何であったのか。ただ単に、福音のことばを受け入れただけのことなのか。彼が知ったキリストとは、いったいどんな方であったのか。それを探る価値は大いにある。
なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです(ローマ
「イエスが主である」とはどういう意味かと聞かれて、はっきりと答えることのできるクリスチャンは非常に少ない。パウロにとって当たり前のことが、ひょっとしたら、今日の私たちには当たり前でないかもしれない。

