ダヴァール神の国
ダヴァール神の国
Davar Kingdom of God
聞く耳の育て方 No.13
1 hour 6 minutes Posted Jul 28, 2012 at 9:09 am.
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すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです(マタイ11:28−30)。
このイエス様のことばで注目すべきは、3つの命令形:
わたしのところに来なさい
わたしのくびきを負って
わたしから学びなさい
これらがどういう具合に結びついてくるかをこのメッセージを通して学んで欲しい。まずは、最後の「学びなさい」から学んでいこう。
「学びなさい」と言われると、多くの人が、学校の勉強のように学ぶことだと考える。そういった種類の学びも大切ではあるが、それだけでは、的外れで、いくら学んでも知恵が付かないことが多い。言い換えれば、みことばを本当に聞く耳がないことになる。どうしてそうなってしまうのか。何が足らないのか。ご存知のとおり、イエス様を非難し、彼を訴える理由をいつも探していたパリサイ人や律法学者たちはみな、聖書の知識の点では、当時のユダヤ人の平均をはるかに上まわる人々であった。その彼らがイエスを十字架にかけて殺すことになったことをよく考えると良い。
聖書によれば、パウロも、有名で人々にも尊敬されていたガマリエルというパリサイ人のもとに、当時最高の教育を受けた。彼の聖書の知識は普通ではなかった。ステパノが殺された時には、そのことに同意していたことが記されている。おそらく、彼もその議会の中に混ざって、使徒7章のステパノのスピーチを聞いていたはず。そんな彼が、今度は、イエスの名を運ぶ器として命を捨てるまでになったのは、どうしてか。どんな変化が彼の中に起きたのか。ルカは、その変化を、彼の目のことを使って比喩的にほのめかしている。
サウロは地面から立ち上がったが、目は開いていても何も見えなかった。そこで人々は彼の手を引いて、ダマスコへ連れて行った(使徒9:8)。
するとただちに、サウロの目からうろこのような物が落ちて、目が見えるようになった。彼は立ち上がって、バプテスマを受け(18節)...
何が彼を変えたのかと言えば、一言で言うと、イエスという方に会ったことだ。
彼は地に倒れて、「サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか」という声を聞いた。彼が、「主よ。あなたはどなたですか」と言うと、お答えがあった。「わたしは、あなたが迫害しているイエスである(4-5節)...
これが、彼のそれまでの聖書の理解の仕方を全く塗り替えることになった。言うなれば、初めて、聞く耳と見る目を持った。これをイエス様のことばで言うなれば、「わたしのところに来なさい」ということだ。彼は、まさしく、イエス様のところに行った。エペソの手紙には、次のような表現がある。
しかし、あなたがたはキリストを、このようには学びませんでした。ただし、ほんとうにあなたがたがキリストに聞き、キリストにあって教えられているのならばです。まさしく真理はイエスにあるのですから(エペソ4:20-21)。
救われた後の彼にとっては、聖書を学ぶとは、キリストを学ぶことと同じ。彼にとって、それがどんなに大きな違いをもたらしたかをよく瞑想すると良い。それが、実は、そのまま私たちにも当てはまるのだが、分るだろうか。これが分る人は、聞く耳を持った人。