ダヴァール神の国
ダヴァール神の国
Davar Kingdom of God
聞く耳の育て方 No.9
1 hour 6 minutes Posted Jun 30, 2012 at 9:09 am.
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神よ。私を探り、私の心を知ってください。
私を調べ、私の思い煩いを知ってください。
私のうちに傷のついた道があるか、ないかを見て、
私をとこしえの道に導いてください(詩篇139:23−24)。
あなたがみことばを聞き、あなたの心の中にみことばが入ると、そのみことばが、あなたの心に中にあるいろんな間違った考え、聖書に反する思い、不信仰や汚れを指摘する。当然、みことばがあなたを責める形になるので、決して心地の良いことではない。上の詩篇のみことばでは、作者が自ら進んで、自分の心にそのような間違った考えや思いがあるかないかを調べてもらうように、神に祈り求めている。その謙遜さが、自分を変える。
神のことばの一つの大きな役目は、人の心の中にある、いろいろな細かい考えやはかりごとを判別すること。
神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます(ヘブル4:12)。
そこが、人のことばと違う点である。人のことばは、心の外側をたたくことはできても、心の中まで刺し通すことはできない。神のことばは、X線のように、人の心の中まで照らし、そこに何があるかを明らかにする。天地創造の神が私たちの心にあるものを全部ご存知なのは当たり前のこと。でも、それを喜びとするのか、嫌なこととするのかで、大きな違いが出てくる。
造られたもので、神の前で隠れおおせるものは何一つなく、神の目には、すべてが裸であり、さらけ出されています。私たちはこの神に対して弁明をするのです(13節)。
自分が神に完全に知られていることを喜びとする人は、神の愛を信頼し、大胆に神の御前に出てくるが、それを喜びとしない人は、いつも何かにおびえたような行動を取る。それを暗闇という。でも、神がその心にあるものを知らないでいる訳ではない。全部が神の目には明らかである。それだからこそ、彼を信頼することができる。彼はあなたの強~い味方。
神の目とは、光のことで、次の例え話につながって来る。
あかりを持って来るのは、枡の下や寝台の下に置くためでしょうか。燭台の上に置くためではありませんか。隠れているのは、必ず現れるためであり、おおい隠されているのは、明らかにされるためです。聞く耳のある者は聞きなさい(マルコ4:21-23)。
みことばによって心の中が照らされる時、大事なことは、それを嫌がって、そのあかりを「枡の下や寝台の下に置く」ことをしないことだ。せっかくのあかりを輝かせないようにすれば、その間違った考え方を正すことも、汚れや不信仰から清められることもない。そうなれば、成長することがないだけではなく、いずれは、神に敵対した人生を歩むようになる。
その一つの例として、マルコ7章にある、パリサイ人たちと幾人かの律法学者の話しを見ていく。
さて、パリサイ人たちと幾人かの律法学者がエルサレムから来ていて、イエスの回りに集まった。イエスの弟子のうちに、汚れた手で、すなわち洗わない手でパンを食べている者があるのを見て、−−パリサイ人をはじめユダヤ人はみな、昔の人たちの言い伝えを堅く守って、手をよく洗わないでは食事をせず...堅く守るように伝えられた、しきたりがたくさんある—パリサイ人と律法学者たちは、イエスに尋ねた。「なぜ、あなたの弟子たちは、昔の人たちの言い伝えに従って歩まないで、汚れた手でパンを食べるのですか(7:1−5)。」
これに対して、イエス様はずいぶん厳しく彼らに答えられた。
イザヤはあなたがた偽善者について預言をして、こう書いているが、まさにそのとおりです。「この民は、口先ではわたしを敬うが、その心は、わたしから遠く離れている。彼らが、わたしを拝んでも、むだなことである。人間の教えを、教えとして教えるだけだから(6-7節)。」
ここに見るパリサイ人や律法学者のどんなところがいけなかったのか、よく学ぶと良い。多くの場合、気が付かない内に、私たちクリスチャンも同じ間違いを犯している。