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あかりを持って来るのは、枡の下や寝台の下に置くためでしょうか。燭台の上に置くためではありませんか。隠れているのは、必ず現れるためであり、おおい隠されているのは、明らかにされるためです。聞く耳のある者は聞きなさい(マルコ4:21−23)。
このイエス様の例え話は、あまり難解なものとはされないが、実は、真理を探ろうとする者には非常に難解な例え話である。この話しを難解だと思わない人のほとんどが誤解している。分っているつもりが、実は全然分っていないことが多いので、謙遜になって読み直してみると良い。例え話そのものは、むずかしいものではない。しかし、文脈の中で、それを解釈しようとすると、むずかしくなる。イエス様は何がおっしゃりたかったのか。またマルコは何が言いたかったのか。文脈は、種まきの例え話の続きで、みことばの聞き方を問題にしている。みことばの種が人の心に蒔かれて実を結ぶことと、あかりを燭台の上に置くことと、どういう関係があるのか。
この例え話が、私たち現代人に分りにくい一番の理由は、「目」というものに関する考え方が、当時と今とでは随分異なるところにある。私たちにとって「目」とは、外側の光が目のレンズを通して入り、網膜のスクリーンに映像として写されたものが、神経を通して脳の方へ伝達され、それが読み取られる。カメラは、まさにその機能を機械にしたものだ。しかし、当時の人々にはその知識はなかった。むしろ、光は人の中から、目を通してサーチライトのように回りを照らして、それで物が見えると考えた。まさに、部屋を照らす「あかり」が目と同じ役目を果たすと考えた。
これに関しては、幾つかのみことばがある。まずは、モーセの作った幕屋の中の燭台に注目すると良い。
また、純金の燭台を作る。その燭台は槌で打って作らなければならない。それには、台座と支柱と、がくと節と花弁がなければならない。六つの枝をそのわきから...一方の枝に、アーモンドの花の形をした節と花弁のある三つのがくを、また、他方の枝にも、アーモンドの花の形をした節と花弁のある三つのがくをつける。...燭台の支柱には、アーモンドの花の形をした節と花弁のある四つのがくをつける(出エジプト25:31-34)。
幕屋の聖所にあった燭台は、アーモンドの枝に似せて作られた。これはなぜだろうか。それを知るための鍵は、エレミヤの見た幻にある。
次のような主のことばが私にあった。「エレミヤ。あなたは何を見ているのか。」そこで私は言った。「アーモンドの枝を見ています。」すると主は私に仰せられた。「よく見たものだ。わたしのことばを実現しようと、わたしは見張っているからだ(エレミヤ1:11−12)。」
実は、「アーモンド(shaqed)」という言葉と、「見張る(shoqed)」という言葉は、母音が一つだけ違って、同じ子音(sh+q+d)を持つ言葉であることから、二つはよく結びつけて考えられた。エレミヤは祭司の子として生まれたので、燭台がアーモンドに似せて作られていたことはよく知っていたはず。それが、見る目と関係していたことも、ヘブル語を母国語とする人には常識。ところが、後の時代に生きたゼカリヤが(神殿は破壊されて、当時存在していなかった)、ある時、燭台の幻を見るが、彼の場合は、その意味を知らなかった。そこで、それがついて御使いに尋ねると、「あなたは、これらが何か知らないのか」と言われた。その言い方から、御使いはゼカリヤがそれを当然知っているものと思っていたことが分る。御使いは、彼に教えて言った。
これらの七つ(の灯火)は、全地を行き巡る主の目である(ゼカリヤ4:10)。
これではっきりと分る。灯火は目である。灯火といっても、電気で光る電球を考えてはいけない。灯火は、燃える火である。光をともし続けるためには、それを燃やし続けることが必要。当時は、油(オリーブ油)を使った。そのあたり、昔の世界にもどって考えないと、聖書の言う意味が分らない。詩篇に以下のようなことばがあるが、よく瞑想して見るとよい。どういう意味だろうか。
あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です(詩篇119:105)。
みことばの戸が開くと、光が差し込み、わきまえのない者に悟りを与えます(130節)。

