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聖書のことばは、霊のことば。霊のことばは、霊の世界の現実を語り、それが物質の世界にて成就されることを目的とする。そして、みことばが物質の世界にて現実化されるために必要なのが、人間の信仰である。霊のことばは、人の信仰を通して、初めて、この世界で現実化される。したがって、みことばが耳を通して聞かされても、それが信仰によって受けとめられなければ、この世界で現実化されることはなく、その目的は達成されない。その状態では、私たちには、何の益にもならない。
福音を説き聞かされていることは、私たちも彼らと同じなのです。ところが、その聞いたみことばも、彼らには益になりませんでした。みことばが、それを聞いた人たちに、信仰によって、結びつけられなかったからです。(ヘブル4:2)。
このみことばで、「彼ら」と言っているのは、エジプトを脱出したイスラエル人たちのこと。
聞いていながら、御怒りを引き起こしたのはだれでしたか。モーセに率いられてエジプトを出た人々の全部ではありませんか。神は四十年の間だれを怒っておられたのですか。罪を犯した人々、しかばねを荒野にさらした、あの人たちをではありませんか。また、わたしの安息に入らせないと神が誓われたのは、ほかでもない、従おうとしなかった人たちのことではありませんか。それゆえ、彼らが安息に入れなかったのは、不信仰のためであったことがわかります(3:16−19)。
出エジプトの際、イスラエル人たちはみな、彼らの神ヤーベが彼らを約束に地に導くという約束のことばを聞いて、喜んでエジプトから出て来た。ご存知のように、この約束は、アブラハムの時代にさかのぼる。この約束を知らないイスラエル人などいない。彼の子孫にカナンの地が与えられるという神の約束だ。その時から何百年も経ち、その約束の成就の時がいよいよ来た。出エジプトの時には、沢山の奇蹟も起きた。パロの軍勢が追ってくる中、葦の海が分けられ、海の底を渡って、そこから救われるという体験もした。
ところが、その約束の地を前にして、イスラエル人たちはみな、怖じ気づいて、その地に入ることを拒んだ。その土地を偵察に行った人達からの否定的なレポートを聞いたからである。
全会衆は大声をあげて叫び、民はその夜、泣き明かした。イスラエル人はみな、モーセとアロンにつぶやき、全会衆は彼らに言った。「私たちはエジプトの地で死んでいたらよかったのに。できれば、この荒野で死んだほうがましだ。なぜ主は、私たちをこの地に導いて来て、剣で倒そうとされるのか。私たちの妻子は、さらわれてしまうのに。エジプトに帰ったほうが、私たちにとって良くはないか。」そして互いに言った。「さあ、私たちは、ひとりのかしらを立ててエジプトに帰ろう(民数記14:1−4)。」
何度も聞いたはずの約束のみことばも、何の益にもならなかった。信仰によって結びつけられなかったからである。ヘブル人の手紙によれば、彼らが約束の地に入れなかったのは、「不信仰のためであった」と言う。彼らも、エジプトを出てくる時は、そのことばを信じて、喜んで出て来たのだが、いざ、その土地が与えられようとした時に、身を引いてしまった。
岩の上に落ちるとは、こういう人たちのことです。聞いたときには喜んでみことばを受け入れるが、根がないので、しばらくは信じていても、試練のときになると、身を引いてしまうのです(ルカ8:13)。
その理由は、根がなかったからだ。根とは、地面の中に深く貼って、木を支えるためのもの。蒔かれた種に大きく成長して欲しいと願うならば、根も深く貼る必要がある。そうでないと、風が吹いた時に倒れてしまう。
確かに、私たちは見るところによってではなく、信仰によって歩んでいます(2コリント5:7)。
逆境に耐え抜くだけの力を持つためには、聞いたみことばを信仰によって、心に深く結ぶ付ける必要がある。

