ダヴァール神の国
ダヴァール神の国
Davar Kingdom of God
聞く耳の育て方 No.4
1 hour 6 minutes Posted May 26, 2012 at 9:09 am.
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聞く耳のない場合にどのようなことになるのかを見るために、幾つかの話しを読んできた。今回は、ヨハネの福音書9章の話しを使って見よう。
またイエスは道の途中で、生まれつきの盲人を見られた。弟子たちは彼についてイエスに質問して言った。「先生。彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか(ヨハネ9:1−2)。」
この人は生まれつきの盲人。こういう人を見ると、「誰のせいでそうなったのか」と普通考える。生まれつきだから、その人自身の罪にせいだとすれば、この人は生まれる前に罪を犯したことになる。それはおかしい。じゃあ、この人の親が罪を犯したのか。
実はこういった考え方をする人は、結構いる。自分に起きる災いを、何かの呪いのだと考えるからである。確かに、災いは、罪からの結果であり、呪いによるもの。しかし、だから、キリストがこの地上に来られ、そのすべての呪いを受けて、十字架の上で死んで下さった。彼は、罪から出た悪い結果を、神から出る良い目的に変えてしまわれた。
イエスは答えられた。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現れるためです(3節)。」
言い換えれば、神はすべてのことを働かせて益としてくださるということ。クリスチャンの大きな特権だ。だから、この真理を知らずに、まだ呪いを受け入れ、恐れの中に生きていることは、非常に馬鹿らしい。馬鹿らしいだけではなく、非常に危険だ。神が災いをもたらし、自分を呪っているように考え、神を恨み、信仰から離れてしまう。聖書は、次のように教えている。
キリストは、私たちのためにのろわれたものとなって、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。なぜなら、「木にかけられる者はすべてのろわれたものである」と書いてあるからです(ガラテヤ3:13)。
さて、イエス様は、つばきで泥を作り、それを盲人の目に塗り、「行って、シロアムの池に行って洗いなさい」と言われた。盲人は、そのとおりにすると、目が見えるようになって、帰って行った。これはエルサレムで起きた出来事であった。
ところが、このことが切っ掛けになって、町の住民たちの間に大きな議論が起きた。その日が安息日であったからだ。
すると、パリサイ人の中のある人々が、「その人は神から出たのではない。安息日を守らないからだ」と言った。しかし、ほかの者は言った。「罪人である者に、どうしてこのようなしるしを行うことができよう。」そして、彼らの間に、分裂が起こった(16節)。
安息日は、旧約聖書がそれを守るように命じているもので、それを破るならば、その人は罪人で、「神から出たのではない。」しかし、中には、そんな罪人である人に、「どうしてこのようなしるしを行なうことができよう」と、それに反対する者もいた。非常に面白い。安息日に関しては、他の福音書にも、イエス様が多くのユダヤ人たちから反対を受けたことが記されている。さあ、あなたがもしそこにいたら、どちらの立場になっただろうか。イエス様の側に立つか、ユダヤ人の立場に立つか。聖書がはっきりと、安息日には仕事をしてはならないと命じているので、これは、そんな簡単なことではない。
実は、これと同じ理由で、聞く耳、見る目を持てないでいるクリスチャンが多い。頭を柔らくして、謙遜になって考えないと、みな騙される。イエス様によって目を開けられた盲人は言った。
神は、罪人の言うことはお聞きになりません。しかし、だれでも神を敬い、そのみこころを行うなら、神はその人の言うことを聞いてくださると、私たちは知っています。盲目に生まれついた者の目をあけた者があるなどとは、昔から聞いたこともありません。もしあの方が神から出ておられるのでなかったら、何もできないはずです(31-33節)。