ダヴァール神の国
ダヴァール神の国
Davar Kingdom of God
聞く耳の育て方 No.3
1 hour 6 minutes Posted May 19, 2012 at 9:09 am.
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群衆は、イエスがそこにおられず、弟子たちもいないことを知ると、自分たちもその小舟に乗り込んで、イエスを捜してカペナウムに来た。そして湖の向こう側でイエスを見つけたとき、彼らはイエスに言った。「先生。いつここにおいでになりましたか(ヨハネ6:24−25)。」
イエス様は、五千人に五つのパンと2匹の魚から食をお与えになったあと、群衆を家に帰らせた。もともと、彼らにこのように食べさせたのは、彼らが人里離れた所まで付いて来てしまったので、そのまま家に帰らせると、途中で倒れてしまう者が出てくる可能性があったからである。ところが、群衆のいくらかは、イエス様が湖の向こう岸に行かれたことを知ると、自分たちも湖を渡って、彼のあとを追って来た。
イエスは答えて言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからです。なくなる食物のためではなく、いつまでも保ち、永遠のいのちに至る食物のために働きなさい。それこそ、人の子があなたがたに与えるものです。この人の子を父すなわち神が認証されたからです(26-27節)。」
この後、彼らとイエス様との会話が続く。中心になるのは、言うまでもなく、「わたしがいのちのパンです」という、イエス様の教えである。ここで私たちが注目したいのは、人が聞く耳を持たない場合の典型として、これらの人々がいかにイエス様の語られることばを理解できなかったかということである。その理由は何か。なぜ、彼らにはそんなに聞く耳がなかったのか。
彼ら:私たちは、神のわざを行うために、何をすべきでしょうか(28節)。
イエス:あなたがたが、神が遣わした者を信じること、それが神のわざです(29節)。
彼ら:それでは、私たちが見てあなたを信じるために、しるしとして何をしてくださいますか。どのようなことをなさいますか。私たちの父祖たちは荒野でマナを食べました。「彼は彼らに天からパンを与えて食べさせた」と書いてあるとおりです(30-31節)。
彼らの頭は、再び、ただでパンを食べることだけであった。そのために、イエス様を試している。「試す」という意味を知らないでいるクリスチャンが多い。「試す」とは、相手をテストすること。テストするとは、話し手が語ることばや、行なう行為に対して、相手がどのように出てくるかを見ようとすること。神様も人間たちをテストされる。彼には、天地創造の神として、それをする自由がある。彼が私たちをテストされる時は、必ず良い目的のためになさる。ところが、私たちが、人を試す時は、相手を操作することによって、自分の利己的な目的のために、その人を使おうとすることが多い。それが否定的な意味での「試す」という意味で、上の例では、人々が、ただで食事をするために、イエス様を試している。彼を道具として、利用しようとしているに過ぎない。「主を試みてはならないと」とは、この意味。
イエス:まことに、まことに、あなたがたに告げます。モーセはあなたがたに天からのパンを与えたのではありません。しかし、わたしの父は、あなたがたに天からまことのパンをお与えになります。というのは、神のパンは、天から下って来て、世にいのちを与えるものだからです(32−33節)。
彼ら:主よ。いつもそのパンを私たちにお与えください(34節)。
イエス:わたしがいのちのパンです。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。しかし、あなたがたはわたしを見ながら信じようとしないと、わたしはあなたがたに言いました。父がわたしにお与えになる者はみな、わたしのところに来ます。そしてわたしのところに来る者を、わたしは決して捨てません(35-37節)。
これらの人々に聞く耳がなかった一番の理由は、彼らの言うパンを得ようとする動機にあった。そんな彼らに、「わたしがいのちのパンです」とは、全く意味のないことばである。イエス様の、「父がわたしにお与えになる者はみな、わたしのところに来ます」ということばに注目。彼のところに来る人は、聞く耳を持った人のこと。次のようにも言われた。
預言者の書に、『そして、彼らはみな神によって教えられる』と書かれていますが、父から聞いて学んだ者はみな、わたしのところに来ます。