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わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、
わたしの道は、あなたがたの道と異なるからだ。−−主の御告げ−−
天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、
わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い(イザヤ55:8−9)。
聞く耳を育てるための第一歩は、神様の思いが人間の思いを遥かに越えたものであることを知ることだ。当たり前のことだが、聞くことはそこから始まる。人間は神のかたちに、神に似せて造られた。よって、私たちは神のようであるが、神も私たちのようであると考えてはならない。神様は、あなたと同じように考えたり、感じたりするわけではない。
それが真理ならば、その神の思い、また神の道を表す、神のみことばも、私たちの理解を遥かに越えたものであるはずだ。私たちが肉の耳で人のことばを聞いて理解するように、神のことばも理解できると思ってはならない。神の語られる真理は、人がその頭でいくら考えても、どんなにひっくり返っても、その神に教えられるということがなければ、自分で悟れるものではない。そして、神に教えられることは、肉の耳ではなく、霊の耳を通してのみできることである。
その、神のことばを聞く耳を持つということがどういうことかを知るためには、聞く耳を持たない場合に、人はどのようになるかを知ることが大きな助けとなる。白という色がどんなものであるかを知るために、白ばかり見ていては、それが白であることが分らない。黒を見て初めて、白が白であることが分る。
聖書には、人が聞く耳を持たない場合の話しがたくさん載せられている。特に、ヨハネの福音書には、聞く耳を持たない人々がイエス様と交わした会話がたくさん記録されている。彼らには、不思議なぐらい、イエス様の言っておられることが分らなかった。その様子が描写されている、幾つかの例を見て行く。
でも、まず頭に置いておくと良いのは、種まきの例え話の中での次のことば:
種を蒔く人が種蒔きに出かけた。蒔いているとき、道ばたに落ちた種があった。すると、人に踏みつけられ、空の鳥がそれを食べてしまった(ルカ8:5)。
そして、その種類の土地に落ちた種に関する、イエス様の説明は次のようであった。
道ばたに落ちるとは、こういう人たちのことです。みことばを聞いたが、あとから悪魔が来て、彼らが信じて救われることのないように、その人たちの心から、みことばを持ち去ってしまうのです(12節)。
最初に見るのは、ヨハネ8章での、パリサイ人(またユダヤ人)とイエス様の会話。どういう点で、彼らに聞く耳がなかったのか、また、もしその理由があるとすれば、それは何か、ということを探りながら、読んでいく。
イエス:わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです(12節)。
パリサイ人:あなたは自分のことを自分で証言しています。だから、あなたの証言は真実ではありません(13節)。
イエス:もしこのわたしが自分のことを証言するなら、その証言は真実です。わたしは、わたしがどこから来たか、また、どこへ行くかを知っているからです。しかしあなたがたは、わたしがどこから来たのか、またどこへ行くのか知りません。あなたがたは肉によってさばきます。わたしはだれをもさばきません。しかし、もしわたしがさばくなら、そのさばきは正しいのです。なぜなら、わたしひとりではなく、わたしとわたしを遣わした方とがさばくのだからです。あなたがたの律法にも、ふたりの証言は真実であると書かれています。わたしが自分の証人であり、また、わたしを遣わした父が、わたしについてあかしされます(14-18節)。
ユダヤ人:あなたの父はどこにいるのですか(19節)。
イエス:あなたがたは、わたしをも、わたしの父をも知りません。もし、あなたがたがわたしを知っていたなら、わたしの父をも知っていたでしょう(19節)。
いくら、イエス様が「世の光(世を照らす光)」であっても、それを見る目がなければ、何の益にもならない。さあ、これらの人々に、その光が見えただろうか。

