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神である主は、私に弟子の舌を与え、
疲れた者をことばで励ますことを教え、
朝ごとに、私を呼びさまし、
私の耳を開かせて、私が弟子のように聞くようにされる。
神である主は、私の耳を開かれた(イザヤ50:4−5)
人も動物もみな、二つの目と二つに耳を持っている。目が二つあるのは、物が立体的に見えるためであり、耳が二つあるのは、音がどちらの方向から聞こえてくるかを察知するためである。両方の目、また両方の耳によって、私たちは、回りに起きている現実をより正確に把握することができる。
目や耳を含む人間の五感は、それを通して自分の回りの現実を把握するためのものだ。人間は、非常にユニークな存在で、霊と魂と体によって成り立っている。霊は、霊の世界の中で、そこでの現実をいつも察知しながら生活している。ところが、体は、物質の世界において、そこの現実を常に察知しながら存在している。そして真ん中にいる魂は、両方の違った世界の現実に挟まれて生きており、その二つを結び合わせる役目を持っている。
人が、そのように、霊の世界の現実と、物質の世界の現実の、二つの異なった現実の中に生きている者であるならば、人にはその二つの現実を正確に把握することが要求される。したがって、人はその創造の初めから、二つの異なった目や耳を持つ者として造られた。一つは、物質の世界の現実を察知するための肉の目や耳だが、もう一つは、霊の世界を把握するための霊の目や耳である。
ところが、霊的な死を体験したあとの人間たちの問題は、彼らの霊の目や耳が閉ざされており、そのままの状態では、霊の世界の現実を把握することが不可能であること。霊的に盲目、また耳の聞けない状態では、霊の世界の現実はないのと同じ。よって、残された肉の目と肉の耳で物質の世界の現実のみを察知し、その現実がすべてかのようにして生きるしかない。これが罪人の世界で、この世である。
聖書は神のことばである。神が霊であるならば、そのことばも霊である。みことばが霊であるならば、それを聞き、理解するためには、霊の耳を使う必要がある。そこが、多くのクリスチャンの盲点。
人の口から語られることばは、声であり、音として私たちの耳に聞こえる。また、書かれた文字は、私たちの目で見て読むもの。だから、聖書が神のことばだと言っても、肉の目で読む点においては、他の書物と同じ。また、神が誰かの口を通して語られたとしても、私たちの耳に聞こえる点においては、誰かが人のことばを語るのと変わらない。そこが落とし穴だ。聖書のことばは、分っているつもりが、実は、全然分っていないことが大いにあり得る。それは、人には、もう一つの耳と目があって、その耳と目の使い方を知らないからである。
上のみことばをもう一度よく読み直してみると良い。神様が開いて下さるのは、霊の耳で、神様はその耳を通して語ってこられる。盲人は、目が開けられなければ、見えない。耳の聞こえない者も、その耳が開けられなければ、聞くことはできない。それは、神様の奇蹟による。
神である主は、私に弟子の舌を与え、
疲れた者をことばで励ますことを教え、
朝ごとに、私を呼びさまし、
私の耳を開かせて、私が弟子のように聞くようにされる。
神である主は、私の耳を開かれた(イザヤ50:4−5)
霊の世界の現実は、いくら人がひっくり返っても、自分の頭で一生懸命に考えてみても、分るものではない。誰でも、自分の知らないことは、いくら努力しても知ることはできない。そもそも、自分が知らない者であることも知らず、何を知らないかも知らないからである。教えてくれる人がいなくて、どうして知ることができるだろうか。上のみことばによれば、「神である主(文字通りは、私の主ヤーベ)」が教える方で、私たちがその「弟子(文字通りでは、教えられる者)」だという。この真理を知ることが鍵だ。知らなければ、教えて下さる方に聞けば良い。ただし、神に聞けば、神が必ず教えて下さるという信仰を持つ必要がある。
イエスは、これらのことを話しながら「聞く耳のある者は聞きなさい」と叫ばれた(ルカ8:8)。

